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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年3月28日「十字架の彼方に」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章11-14節

  • メッセージ:中山仰牧師

 人は何のために生きるのでしょうか。言い換えると、何のために働いたり、その下準備としての学びをするのでしょうか。今日の聖書箇所には、10律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。と書かれています。善い行為は必要です。それらがなければこの地上はもっと悪い状態に陥ることでしょう。だからといって、その善い行いだけで神の国へ入ることができるということにならないようです。善い行いを照らす基準は、律法です。律法を守ることで生き抜こうとするならば、律法全部を守らねばならないからです。そのようなことができる人はいないはずです。

 エルサレム神殿において年に一度罪の赦しのための犠牲の動物がささげられていました。

私たちは善人であろうと、善い業を積んでいても、神の前では大きな罪人だからです。それほど神の前に汚れている私たちですから、贖罪のささげものをしなければなりませんでした。それは周知の事実で、割礼を受けている神の民イスラエルの人々がそのような犠牲をささげなければなないほど、人間の側が汚れているということです。

 私たちが罪を赦される方法は、動物の頭に手を置いて自分の罪を告白した後にその動物を殺して身代わりとしてささげることしかありませんでした。身代わりの犠牲をささげなければならないほど、それほどまでに私たちの罪は神の御前に重く深いのです。その罪が取り除かれなければ、神の御前に出ることはできません。当然、神の御国へ入ることなどできないのです。

 その昔、人間の罪の大きさは計り知れず、ことごとく神に逆らう者たちばかりでしたが、信仰の父と言われたアブラハムという人物を神が取り立てて契約を結んでくださいました。神を信じる印として「割礼」が施っこされました。その割礼はあくまでも印であり、その背後にはアブラハムがどこまでも信じる「信仰による義」があげられています。

 その信仰とは何でしょうか。3:11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。と書かれています。少し前の2章16節にこのような言葉もあります。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によってはだれ一人として義とされなかったからです。」

 なぜイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのでしょうか。どうしてイエス・キリストが救い主なのでしょうか。それは 13キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

 父なる神は私たちが神への罪責から逃れるために、完全な救いの方法を採ってくださいました。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」といわれている言葉通りを行ってくださったのです。それはイエス・キリストが一度限りの完全なささげもので、毎年罪の犠牲としての動物をささげる必要はないということです。毎年ささげる犠牲ですら傷のない小羊でなければなりませんでした。神は完全な犠牲として無実の独り子をこの世にお遣わしくださいました。無実であるためには、生まれながらの人間には罪があるから無理でした。ですから、神は乙女マリアをお用いになって、聖霊によって身ごもらせてくださったのです。その方以外に完全な犠牲はありえませんでした。それだけではなく、私たちの罪の犠牲を完成させるために極刑である十字架刑に就かれます。十字架刑は木につけられますから、明らかに神から呪われた処刑方法です。動物犠牲でもそうでしたが、本来生ける神の前に死ななければならないのは私たちでした。つまり本来呪われた十字架刑に相当するのが私であったということです。神の前にはそれほどの重罪人であったのです。その死を身代わりに受けてくださったのが御子イエスさまでした。ですからこのお方を救い主と信じる者は例外なく、滅びることなく永遠の命を得ることができるという約束なのです。

 そのように、ガラテヤ2:16には「けれども人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によってはだれ一人として義とされないからです。」とあります。この説明によって、律法さえ守れない私たちは、結局どんなに善い行いをしたとしても救いには程遠いことが分かります。

 信仰は非常に単純です。キリストが神から私の罪の身代わりとしてこの世に遣わされていると信じるだけで、もはや犠牲の子羊をささげなくてよいのです。それは「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ2:14)完全除去という恵みです。そのようにイエス・キリストにあって生きる者たちは神の子であるという破格の恵みにあずかれるのです。ガラテヤ書3:26-29「26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」それらはすべて御子の受難と御苦しみの上にあるということを覚えたいものです。それらを通して与えられる恵みが計り知れない者であり、永遠の命へと結びついているのですからただ感謝して受け入れるほかありません。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押さえられたのです。」


田無教会牧師 中山仰

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