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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年5月16日「生きているものの神」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 20章27-40節

  • メッセージ:中山仰牧師

 この個所のやり取りは、申命記25:5で命じられている長男の嫁の権利に関してです。神の民の財産が継続されるように長男に嫁いで子供がないままに死なれた場合、次男が代わりに結婚して子供をもうけて、その子の財産を補償するという制度です。ここでのサドカイ派と言われる人々は、全くあり得ないような設定で7人の兄弟に次々と次いで子をなさなかった例として、復活についてイエスさまの考えを伺おうとしたのです。それでも主はその機会をとらえて、彼らに「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と答えておられます。

 お釈迦さまも死について真剣に考えています。忌まわしい死に対して、死んでも生まれ変わる(輪廻転生)と悟ったところを教えています。ただし、その霊魂不滅は次の機会にどのようなものに生まれ変わるかの保証はありません。良いことをしているともっと良い家柄に生まれ幸せになれるが、悪い事のみに走る場合には畜生に生まれ変わることもあるというような教えです。そのような場合の復活は、罪が解決されていませんから、何回繰り返した人生であっても、人生は重たい重荷を負って苦労して歩むがごとしとなってしまいます。その点聖書の教えは一度だけの復活があり、その時キリストにあるものは右に、反対するものは左に分けられてそこからは永遠の救いか滅びかに分かれることが表明されています。

 問題は、復活の後のことだけでなく当然のこととして、むしろ現在生きている私たちの生き方です。モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。モーセのはるか前に生きていた先祖のアブラハム、イサク、ヤコブに神が現れているのですから、当然その方は生きていることは間違いありません

 現在生きている私たちは、御子の十字架の死によって、私たち罪人に救いがもたらされています。信じられない神の奥儀ですが、これこそ、神は生きておられる証拠です。死んでいるような神であったら、罪人とは関わらないでしょうし、罪人を救うための方法と計画は、生ける真の神以外に不可能でしょう。そうでなければ、だれ一人救われる者はいませんでした。

それでは私たちキリスト者は、生きている神を全面的に信じているでしょうか。サドカイ派の人々の生き方はローマ帝国におもねっており、それゆえ議員たちも大勢いました。彼らは本心から、救いと復活を求めたのではありません。ほんの興味本位でした。

 この当時より、復活の保証は確かです。なぜなら、主イエス・キリストご自身が十字架の死から三日目に復活したからにほかなりません。Ⅰコリント15:54-55この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と書いてあるからです。

 神を信じた者に理不尽なことがつきまとうことがあります。それでも最後まで耐え忍ぶ者は救われます。どうして生きている神が見ていないことがありえましょうか。不遇な生涯を遂げた最初の人アダムとエバの子どもの殺されたアベルは証し続けています。ヘブライ11:4信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者である証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。

 神は低い者を取り立てて、神の祝福の内に神の業をなさしめます。

 聖書の世界で叩き上げとして有名な人物は、ダビデ王でしょう。預言者サムエルが次の王の選択にダビデの父のエッサイのところに訪れた時にも、8番目の末っ子として羊の世話をさせられていて兄たちの隅っこに押しやられていました。そんな彼が一方的に主に取り立てられています。その彼が詩編などを詠んでいますが、その知恵はどこから得たのでしょうか。それは祈りによります。

 叩き上げの最たる方はイエスさまではないかと思います。一介の大工から身を起こして、律法学者のような専門的な学びもしていないにも関わらず、御言葉の真理をつかみ、律法に関しても基礎にある愛から発想できる知恵は、まさに御父との祈りの交流により与えられたものです。

 私たちも祈り求めつつ、御言葉によって真理を知ることができます。なぜならば、この御言葉にしたためられている真理こそ、父なる神が生きているものの神であるということの確実な証拠だからです。この世の知恵は虚しいものですが、神の知恵は私たちを本当に生かしてくれます。なにしろ、生ける神の知恵のうちに私たちは、永遠の命を得ることが約束されており、それを信じる信仰をさらに与えられているからです。そこからこの世における様々な分野における知識を増し加えることが許されています。

 そしてまた主は教会に多くの人を与えてくださり、それぞれの信仰の交わりにおいて成長させてくださいます。


田無教会牧師 中山仰

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