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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年6月6日「神の右に座する主イエス」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 20章41-44節

  • メッセージ:中山仰牧師

 これまではユダヤ教側からの連続した質問責めでした。今度はイエスさまの方から反問の矢が放たれます。マルコとマタイによる福音書では、この記事の前に「最も大切な戒め」のお話しが入りますが、ルカはそれを省略しています。それによってすぐ前段との関係である復活についての論証の結びとして読ませようとする意図があります。つまり38節の「人は、神によって生きている」のは、キリストによるのであると言いたいのです。

 今日のテキストのやり取りの背景に、ダビデ契約があります。 (サムエル下7:13-14)「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしへに堅く建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」という内容です。

 それゆえに人々は、「キリストをダビデの子」と言っていました。それなのに主イエスが弟子たちに「どうしてか」と尋ねたのは、それを否定したからではありません。当然主はダビデ以上の者であると主張したいのです。

 その一つの論証として引用されている詩編110編は、新約聖書が最も多く引用する旧約聖書の個所です。その時の引用の仕方で重要なことは、「(ヤハゥエなる)主は私の主(キリスト)に言われた」ということを前提にした後半の答えの「わたしの右の座に着いていなさい」というセリフに意味があるのです。それについてはヘブル書の著者が<神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵を足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。>と言っていることからも分かります。

 今申し上げましたように、主イエスのここでの論証の中心は、「ダビデのキリストを主と呼んでいる」か「子」と呼んでいるかという言葉尻にあるのではありません。「ダビデの子」でなければ「誰の子」なのかとう問を突き付けて来るのです。そのやり取りについては並行記事のマタイによる福音書では「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』>  このように、主イエスも「肉によればダビデの子孫」であることは間違いありません。しかしそれ以上に「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1:2-4)。それゆえに復活するイエスこそが復活信仰の確証であり、間違いない神の御子なのです。

 それは事実、主イエスは「命の君(根源)」なのですから、どんなにユダヤ人がイエスさまを殺してもたちまち生きるほどの生命力をお持ちのお方です。使徒3:15「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。主イエスは命の君ですからご自身「甦りであり、命」なのです。さらにその証人としての私たちには「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」と言い切ることが許されています。キリストの命とは医学的生物学的であると別次元であり、主イエスに結び付いたぶどうの枝だけがこの生命の実を結ぶことができるからです。その命を得た者だけが主イエスをキリスト(救い主)と信じられます。それゆえに罪の内を歩みません。さらに兄弟姉妹を愛します。そのようにして単に生きているだけではなく、世に打ち勝つ命なのです。

 ここでの私たちへの切実な肉薄する問いは、あなたたちは心から王を求めているのかという訴えです。

 王はすぐに権力に酔います。そのような中で、いつの世でも内外を見回しても人民を全力で守るような王はどこにいるのでしょうかと問わずにはおれません。

 また自分たちの正義を認めてくれるそのような真の祭司を求めざるを得ません。私たちはやがて皆神の前に出る時が遅かれ早かれやってきます。そのような時に真実に執り成してくれる者がいるのでしょうか。職業柄その地位についているのではなく、自らを投げ出しても体を張って祈りの内に神を私の間を中継ぎしてくれるような祭司とは誰でしょうか。

 現在こそメシア待望の時ではないでしょうか。その時に、キリスト・メシアは誰かという問いを聖書に聴くことは重要でしょう。他人事ではありません。あなたが、あなたにとって「キリスト」とはいかなる存在であるのでしょうか。それを今朝主イエスが私たち一人一人に問いかけられているのです。

 あなたにとって神の言葉を聴かせるお方は誰でしょうか。あなたにとって、あなたの生活全部にわたって支配される道を拓いてくれる者は誰でしょうか。私たちの小さな生き様においても真理をもって導いてくれるお方は誰でしょうか。この方を心から信頼し、祈り、服従し得るという方は一体どなたなのでしょうか。主イエスは、今そのことを問われます。

 ダビデが神から遣わされた王の君臨をうたった詩編において、その方を「わが主」と呼んだのはなぜでしょうか。そこに告げられる者は、あなたがたが思い描くダビデの子、メシアと同じ救い主であるのでしょうか。この詩を詠んだダビデ自身すら本当の救いは自分のような者に与えられていないということを知っていたのではないでしょうか。自分の枠を遥かに超えた者が、神によって立てられる時を仰ぎ臨んでいたとなぜ思いつかないのか、と主イエスはそのように問い続けておられるのです。

 これまで主イエスはダビデの子であるとさんざん表明されて来ています。主は間違いなくダビデの系統に属するものです。と同時に神の子でもあるという事実です。人の血の流れを継ぐだけでなく、神の血筋に立つ者として、いや神そのものとして、ダビデの子孫としてお生まれになられた。つまり神がこのダビデの家系の中に入り込んで来てくださったのであり、神がこのダビデの家そのものを救い取ってくださったとしか言いようがありません。そのことにより神は、私たちの望みをも救い取ってくださったのです。

 メシアはただ立派な王様だと思い込んでいた自分たちの心でした。もっと立派な祭司に違いないと思い込んでいた方が、もっと力ある言葉を語られました。それは立派な預言者だと思っていたそのような思いが、キリストにより否定されたのでも抹殺されたのでもありません。あるいはそんなくだらない望みなどは、神の子に関わりがないとおっしゃったのでもありません。そうではなく、この世の生活の中で悪戦苦闘し、虐げられて、認められない私たちの悲しみや苦しみ、痛みや憧れなどをすべて抱え込むようにして、神の子がここにダビデの子として、ダビデの王として君臨することを喜んで引き受けていてくださるのです。

 ここで主イエスがキリストと呼んでいる者は、誰あろう、主イエスご自身にほかならないという人々がいます。つまりそれは、人々が想像しているような高い所に立っている王ではなくて、人々の思いに勝って、低いところまでくだることがおできになる主イエスであると主張します。そして、人々の思いに勝って高く、神の右にまで立ちえる主であると言います。なぜならば、具体的に考えるならば、十字架に至るまで低く深く、そして甦って高く天に至るまでと言わなければなりません。後に私たちの教会の信仰告白が出来た時に、主イエス・キリストは「天に昇り、全能の父なる神の右に座し」と言うようになりました。ダビデの言葉は、まさにここに成就したと、教会の人々も信じたのです。

 それを受けて、私たちもまた「キリストとは誰か」ということを信じたのです。そして新たに、言葉と祈りと賛美と行いをもって、私たちの告白として言い表すときが始まるのです。

<聖餐の恵み>

 聖餐式はイエスさまによって制定されました。その言葉は「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」という命令でした。マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書と共に同じ言葉が使われています。このときの主の「わたしの体である」と言われた言葉を巡って多くの解釈がなされました。それはパンとぶどう酒がそのままイエスさまの体であるという主張です。これはカトリック教会が採用しています。でもその後に、主は続けて「わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言っているのですから、パンとぶどう酒イコール主イエスのお体と捉えることは問題があることは明白です。

 たとえばヨハネによる福音書で主の言われた「わたしはぶどうの木です。」と言ったからといってどうしてイエスさまがぶどうの木であると断定をするのでしょうか。そのようなことはカトリック教会でもしないと思うのですが。

 ですからプロテスタント教会は、パンとぶどう酒がイエスさまの体と流された血潮に変化するというような考え方を採っていません。それでなくても、1世紀のキリスト教会で聖餐式を行う時に迫害されていたので、秘かに行っていました。そのため信徒がぶどう酒に預かることを見た人たちから、彼らは隠れて人の血を飲んでいるという誤解を受けたのです。プロテスタントの中でもルター派の代表者マルチン・ルターは少しカトリックに偏った考えを持ち合わせていました。バンとぶどう酒が直接イエスさまに変わらなくても、聖餐が行われる時にそれらはイエスさまの体と血に超自然的に変化するという主張です。

 そのような幾つかの誤解を生みだすほどに、聖餐の恵みが大きいことは確かです。御霊の聖別により、パンとぶどう酒が主の恵みに変わるからです。そして本来預かるにふさわしくない私たちに恵みがもたらされるからにほかなりません。

 ただし、聖餐のパンとぶどう酒がイエスさまに変わってしまうのではなく、カルバン以来、聖餐が行われるところでは霊的に主が臨在してくださりその恵みを豊かに与えてくださると解釈して預かっています。聖餐式は、私たちの罪の身代わりとしてのイエスさまの遺言です。それに預かる度に、主イエスの尊い御体と流された血潮は本来私たちが流さねばならないものであるということを強く覚え、本来預かるのにふさわしくないこの罪人が預かることを許されておるという、その恵みを深く味わうことを許されているので、ただ感謝です。主がもう一度この地上に来られる時まで、私たちはその恵みを味わいつづけて行きます。


田無教会牧師 中山仰

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