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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年12月19日「インマヌエル預言の成就」クリスマス礼拝

  • 聖書箇所:マタイによる福音書1章18節-25節

 

 本日はイザヤ書からクリスマスとの関係を見たいと思います。今日の個所は、旧約聖書イザヤ書からの2つの個所の預言の成就です。

イザヤ書は9章「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。」と7章の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という件です。

 ダビデ王の後、小国化したイスラエルは周りの敵から始終攻められます。ダビデ、ソロモンの後に王として立てられた王様はどのように敵の攻撃から乗り切るかに絶えず苦心しています。預言者イザヤは強国のアッシリアにもエジプトとも同盟関係を結ぶことをしない中立政策を指示します。天地創造の神は万物を支配され、イスラエルの主であるから、世界最強のどんな軍隊もこれに勝つことはできない。イスラエルは神の民なのだから、その主と共に戦うべきであるという内容です。ところが上に立つ者、ここでは特にアハズ王が、全く神の方を顧みることをしません。不信仰のアハブ王に向かって預言者は信じられないのなら「しるしを求めよ」と命じます。かつて士師のギデオンという人物は弱い者でしたので、自分がリーダーとしてやっていけるかどうかを判断するために神にしるしを求めたことがあります。

 ところがアハズ王は、一見謙虚なようですが全く神から遣わされた預言者の言葉に聴き従おうとしません。ついに業を煮やした預言者イザヤは「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。」と宣言して「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という預言でした。

 ここで預言者イザヤは「アハズ王よ」と言わないで「ダビデの家よ聞け」とイザヤが言ったのは、アハズだけではなく、歴代の王たちがほとんど神に逆らい、預言者の言葉に聴かないという不信仰をし続けたからです。どれほど大きな罪を、しかも歴代の王たちが幾代にもわたって重ねて行っているかということが読み取れます。そのような背信行為が続々と続けているときにも、逆に神はダビデと結んだ契約を忘れられていないということに驚きます。

 さらに続けて9章1節から救いの言葉を告げています。それが生ける神が契約を決して忘れず、イスラエルの背信行為にも関わらず、決して見捨てていないという愛と恵みです。そこをご一緒に確認してみましょう。旧約聖書1073頁です。「闇の中に歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」続けて5節では「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は“驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君”と唱えられる。ダビデの王座とその王国の権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」と続きます。

時代はくだってイスラエルは、ローマ帝国の圧政の支配下にある状況の中で、絶望的な苦しみ、困窮に喘いでいます。そこには、「神われらと共にいます」という実感などまるでなかったと思われます。その苦しみの連続のいわば闇の状態の時に希望の光が射し込みました。それがメシアであるイエスさまの誕生でした。クリスマスの大きな喜びです。イザヤの預言がまさにこの時、ここに成就したのでした。人々の不信仰にもかかわらず、「神が共にいてくださる」という破格の恵みが成就したのでした。

ところがご存知のように、この神の子メシアであるイエスさまを人々は受け入れません。それが人間の中に巣くう大きな罪なのです。主の歩みは人々の不信仰によって、否定され、迫害され、ついには十字架の死という恐ろしい反逆がなされたのです。そのことはまた預言者イザヤの書の苦難の僕として53章で語られていたことです。ここは何度でも読み返していただきたい箇所ですので、ここを開けて確認しましょう。52章の13節<見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。>そして53章へと続きます。2節<見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。>

4節<彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。>このようにイザヤは救い主である「主の僕の苦難と死」を預言しています。<主の僕は、黙々と引かれて行く小羊として、私たちの罪の身代わりとなられました。主の御苦しみは私の罪のためです。その打ち傷により、私たちに命が与えられたのです。>その方法以外に、私たち罪深い者が救われることはなかったからです。  ですから、クリスマスは決してただ単に楽しいだけで終わりません。神の子イエス・キリストの尊い犠牲の上に、私たちの救いが完結しているからです。ですから、イエスさまをまことのメシア救い主として信じる者にとっては、本当に感謝なことであります。真心からの喜びにあふれます。それは罪深い私が無条件に一方的に救われるからです。その救い主の誕生ですから、クリスマスはあふれるばかりの喜びにつながります。

田無教会 中山仰引退教師

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