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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年2月28日「愛と赦し」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 6章27-36節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 「あなたの敵を愛しなさい」という言葉は目標・理想・お勧めでなく、主の御命令です。愛についての4つの戒め「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」とあるのは、惜しみなく「与えること」であり、これらの行為が形式的であったり、一時的な、その場的な寄付行為であってもいけません。

 31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は黄金律と言われています。小さい頃に近所の大人たちから、「嫌なことをされたら悲しいだろう。だから同じようなことを他の人にしてはいけないよ」と注意されたものでした。しかし新約聖書の場合積極的で、嫌な被害をこうむるからしないのではなくて、前に進めて「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」とあります。まさに「自分にしてもらいたいと望むとおり」の心を込めた愛で相手に向かわなければなりません。見返りを期待して人に善を施すことは誰でもやっていることです。そのような返済を考えずに誰にでも愛の施しを実行しなさいと命じられます。隣人なら愛せるかもしれないけど、敵については無理と考えているところがあります。

 敵対者に対して主イエスが抗議する場面は何回もあります。ただし、その愛は自由な愛です。形式的でも律法的でもありません。抗議されてもなお愛する自由を失っていないという点が肝心です。その良い例として、十字架にかけられる直前に、兵士に平手打ちをくらったときに、抗議しています。しかしその同じ主は、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と迫害者たちのために執り成しています。

 使徒ステファノも殉教を遂げる時、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と叫んでいます。このような祈りが可能なのは、イエス・キリストの贖いによって本当に自分の深い罪から救われたという実感・感謝・感銘からとしか言いようがありません。

 米国の黒人指導者であった、マルティン・ルーサー・キング牧師の説教やデモによるアピールは、どんなに白人から差別されようとも、非暴力を訴えての戦いでした。差別社会や白人主導の政治に暴力や良からぬ思いで訴えるのではなくて、彼自身も神の前における自らの罪をキリストの贖いによって救われていることを深く感じていたからにほかならないでしょう。

 愛とは、好き嫌いではなく、間違いなく「意志」です。憎む者を愛することは、自分が愛していない者を愛することです。これは自分の心に逆らわなければ生まれないものです。

あらゆる場面の復讐という概念を全く捨て去ることです。主なる神は、罪人を憐れまれます。主は生きておられます。復讐は主のなさることです。それに委ねなさいと言われます。ロマ12:19<愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いてあります。>

 ノートルダム清心学園理事長のシスター渡辺和子先生は、その著書『共に苦しみ、共に喜ぶ』の中で、彼女に起こったこんな出来事を紹介しいます。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、渡辺和子先生のお父様は、二・二六事件で暗殺された陸軍大将渡辺錠太郎という方です。まだ9歳だった渡辺先生は、机の陰からお父様が殺される様子を一部始終目撃していたそうです。そんな先生には「先生のお父さんを殺した人を憎んでいますか」と質問されることが度々あったそうです。その都度、先生は、「自分は彼らを“敵”と考えたことはない。そそのかされ、命令されて動いただけだと考えてきている」と答えていたそうです。

 そんな渡辺先生が、2.26事件の特集TV番組で、殺された側の生き証人として出演することになったそうです。テレビ局の出演者控室に入ってみると、驚いたことに、そこには、お父様を殺した側の兵卒だった方もお一人いらしたそうです。その時に先生はその方と話すことも、出された珈琲を飲むこともできなかったそうです。その時の感情を「頭でわかっていても、体がいうことを聞かない」とおっしゃっています。これが現実だと思います。ただし続けて語られた渡辺先生の言葉が迫ってきます。「そんな自分をゆるさないといけない」と。どうしたら自分をゆるせるのかということを真剣に考えなければ結局は心の奥底では敵を赦せません。その真の解決こそ、イエス・キリストが敵のためにも、また神の敵であった私のためにも十字架にかかったことを心から受け止める以外にないのではないでしょうか。

 敵を赦すことが出来たから洗礼を受ける資格が与えられる訳ではありません。隣人を愛することすらできない自分を神の前に悔い改めて進むこと、常に神の前に立って造り変えてもらうことを祈りつつ従うことしかできません。主は35節「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」と命じます。主の憐れみとは、他者の苦しみを共にするという意味の言葉です。そうでなければ、どうして神に逆らう、敵である私たちを愛するため、また救うために、独り子を十字架につけられたでしょうか。

 私たちは神の怒りが怖いから、相手を赦すのではありません。そのようなところに本当の愛と自由は生まれません。本当に自分が神の御前に、払いきれない膨大な借財としての罪を赦された喜びからその恵みを覚える時に、他人を許し始められるのです。愛は恐れや強制を生み出しません。

 真に慈悲深い父なる神は、愛に生きられない私たちをご存知です。だからと言って、敵を愛さないままでいることを続けることはやはり罪の深みに留まるだけです。そのような弱い私たちだからこそ、その痛みをご自分の痛みとして、主の十字架と共に葬ってくださったのです。この小さな弱い私を救うために、独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださり、人を赦すことのできない私のためにその罪を十字架につけてくださったのでした。私たちは、自分の愛の貧しさを知っています。その罪を知るからこそ心から悔い改めつつ、逆に、恵みの座に感謝して大胆に近づこうではありませんか。主よ、赦してください。全てをあなたに委ねます。あなたから引き離そうとする全ての罪から解放してください。徹底的に愛してください。弱い私のために御霊なる神よ、導き給え。主イエスよ、執り成してくださいと。


田無教会牧師 中山仰

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