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日本キリスト改革派 田無教会

2022年10月9日「神の恵みへの応答」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章14-20節

 

使徒パウロは3:10で、フィリピの教会から送られた支援に関する喜びを表現しますが、それは「支援をありがとう」というような直接の謝辞ではありません。なぜ遠回しな表現をするかというと、教会(ないしは宣教者)と財との関係はしばしば誤解を招くからです。現代でも、ある人々は、宗教はお金集めの手段であるという誤解をしています。(霊感商法がそのような印象を強めているのかも…。)パウロはこのような誤解を招かないように、敢えて直接的な謝辞を述べず、さらに「物欲しさにこう言っているのではありません(11節)」、「贈り物を当てにして言うわけではありません(17節)」と繰り返しました。

そうでありながらも、パウロは15節から18節にかけて、投資の専門用語を多用します。

15節「もののやり取り」は、貸借勘定のことです。つまり、フィリピの教会がパウロの働きのためにお財布を共有したということです。他の教会がパウロと財布を共有することはありませんでした。どうやら、パウロ自身が援助を断っていたようなのです。というのは、パウロが各地からの援助で裕福になると、「やっぱりパウロの宣教活動はお金のためだ」と誤解される可能性があるからです。フィリピの教会もそのことは知っていましたが、彼らは敢えて援助を送り続けました。それは、パウロと苦しみを共にする(14節)ためでした。パウロと会計を分かち合うことは、パウロの窮乏を共に担おうとするフィリピ教会の思いの表れでした。彼らがパウロと苦しみを分かち合うことは、共にキリストに結び合わされた者としての連帯を示すことでした。パウロはその心遣いを嬉しく思い、フィリピの教会からの援助だけは受け取ることにしたのでしょう。

17節「益となる豊かな実」は、投資に対する配当のことです。パウロは、フィリピの信徒たちの支援に対する見返りがあるようにと望んでいました。

18節「わたしはあらゆるものを受けており(直訳:すべてを受領した)」は、領収書の定型文です。

しかしパウロは商売人ではありません。いくらパウロが福音宣教に勤しんでも、お金にはなりません。(彼はフィリピ教会以外からの援助を断っていたので、新しい信者を獲得することが資金源の拡大につながることはありません。)ではなぜパウロは「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいる(17節)」ということができたのでしょうか。それは、その配当にあたる「豊かな実」をフィリピの人たちに還元するのは、パウロではなく、主なる神様だからです。

1:11の「義の実」とは、人間と神様との関係を修復し回復する果実です。17節の「実」も、人間と神様との関係を回復するものですが、その果実が与えられるということはつまり、天の御国における神様との交わりが、今、この地上で先取りして実現するということです。

「人間と神様との関係の回復」は、神様が御子イエス様を犠牲にされた(文字通り「出血大サービス」)ことによって実現しました。使徒パウロも、私たち礼拝者も、神様の大赤字によって神様との正しい関係を回復しました。パウロは、他にも一人でも多くの人が神様との関係を回復するようにと、経済性を無視して福音宣教に勤しみました。フィリピの教会も、パウロと共にキリストに結び合わされた者として、見返りを期待せずにパウロを支援しました。しかしその支援によって示された心遣いは、パウロ個人を喜ばせただけでなく、神様にも喜ばれ、神様への献げ物として受け入れられました。18節「香ばしい香り」は、創世記8:21(ノアによる礼拝)の「宥めの香り」のことです。既にノアは神様との正しい関係に回復させられていましたが、ノアのささげたいけにえの宥めの香りが神様に受け入れられたことは、ノア自身が神様に受け入れられたことの「しるし」でした。フィリピの信徒たちがパウロの宣教活動のために支援を送ることは、さながら、神様との正しい関係にあることを表わすいけにえでした。神様はその献げ物を香ばしい香りとして喜んで受け入れてくださいます。その献げ物によって表わされた教会と神様との関係こそ、パウロへの支援の「益となる豊かな実(=配当・見返り)」なのです。

キリスト者が天の御国の市民として地上に生きるためには、神様と親密で正しい関係にあるための「義の実」(霊的なもの)も、日々の生活必需品や食糧(肉的なもの)も必要です。19節でパウロは、神様が、御自分の栄光の(霊的・肉的な)富に応じて、その霊肉両方の必要を満たしてくださるのだと宣言します。また、それらの必要は「キリスト・イエスによって」満たされます。イエス様に結び合わされたフィリピの信徒たちがこの地上で恵みを受けることもまた、イエス様と無関係のことではありません。

キリストによって霊肉ともに必要が満たされたフィリピの信徒たちは、パウロと一緒に「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン(20節)」と神様を賛美するようになります。創造主なる神様は、被造物である人間とは全く立場が異なるにも関わらず、人間と、まるで親子関係のような親密な関係を結んでくださいました。神様との正しい関係に回復させられた人々は、最大限の親しみを込めて「わたしたちのお父さん」である神様を賛美します。賛美もまた、賛美する者と神様とが正しい関係にあるからこそささげられるのです。

献金も、礼拝も、賛美も、また地上でキリスト者として生活することも、神様に喜ばれ受け入れられる香ばしい宥めの香りを神様にささげる行為であり、ささげる者が神様との正しい関係を回復したことのしるしです。私たちは、キリストによる救いの恵みに対する応答を、献金・礼拝・賛美という形で表わすことができます。キリストに結び合わされていなければ、お財布がいくらパンパンでも、献金をささげることなどできません。私たちは日々の生活(特に礼拝・献金・賛美)によって、私たち自身が「益となる豊かな実」を受け取ったことを確信することができます。今日、礼拝式に招いてくださった神様に賛美をささげます。     


伊藤築志定住伝道者

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