聖書箇所:イザヤ書37章1-38節
聖書に示されている主なる神様だけが、唯一の、世界中を支配しておられる神様です。世界中を支配しておられる神様ということは、具体的にはどういうことなのかというと…
① 世界をお造りになった神様であられる、ということ。 …主なる神様なしに存在しているものは、世界中のどこにもありません。
② 世界を保ち、治めておられる神様であられる、ということ。 …主なる神様は、天地創造の後も、世界全体に関わって、その歴史が御心通りに動くようにしておられます。
私たちは、主なる神様が、上記の意味で世界に関わっておられる唯一の本当の神様なのだと告白しなければなりません。そのことを告白しつつ生きるとき、私たちの人生のどの場面も主なる神様との関りがあるのだと考えて生きることになります。逆に言えば、主なる神様に頼れず自力で乗り越えなければならないような分野は、私たちの人生の中に、ないのです。主なる神様に頼らず自力で乗り越えようとすることは、世界中を支配しておられる神様を過小評価することでもあります。
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イザヤ書36章には、ユダの王ヒゼキヤが大国アッシリアに反旗を翻すにあたって、エジプトの軍事力に依り頼んだのだと記されていました。それは主なる神様の御心に従ったことではなく、ヒゼキヤ王が自分の判断で行ったことです。ヒゼキヤ王が主なる神様でなくエジプト軍に頼ったことは、主なる神様を世界の一部分だけを支配する神と見なしたことと同じであり、主なる神様を過小評価するような姿勢でした。
しかしヒゼキヤ王は、その自らの罪を悔い改めました(1節「衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った」)。彼は自分自身の状態について「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日。胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない(3節)」と告白します。出産時、妊婦がいきめなかったら、胎児も母体も命の危険にさらされます。ユダ王国は、大国アッシリアの侵略によって、存亡の危機に立たされています。なのに、ヒゼキヤ王は無力の中にありました。
このような状況下においても、無力な者にはなお、「主なる神様により頼む」という一つの道が残されています。主なる神様に対して罪を犯したヒゼキヤ王が再び主なる神様に頼るというのは都合が良すぎるように思われるかもしれませんが、そんなことは承知の上で、ヒゼキヤ王には、力のない者を憐れんでくださる主なる神様にしか希望が残されていないのだという切実な思いがありました。彼は預言者イザヤに祈りを要請し、自らも祈りました。16節からの祈りは、主なる神様が「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主、唯一の地上の全ての王国の神、天地をお造りになった方」である、という信仰告白から始まります。彼はその御前にひれ伏したのです。
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ヒゼキヤ王の祈りを聞いた主なる神様は、預言者イザヤを通して、ヒゼキヤ王に次の御言葉をお告げになりました。「主がアッシリアの王に向かって告げられた言葉はこうである。おとめである、娘シオンは お前を辱め、お前を嘲る。娘エルサレムは お前に背を向け、頭を振る(22節)」。ユダ王国の首都エルサレム(シオン)を「おとめである娘」と擬人化し、無力であった彼女が大国アッシリアの王を辱め、嘲るようになるとおっしゃったのです。それは、悔い改めて主なる神様だけにより頼んだヒゼキヤ王率いるユダ王国が、大国アッシリアに打ち克つということを意味しています。
そして実際、アッシリアのセンナケリブ王は、主なる神様のお言葉通り、後にエルサレムからの退却を余儀なくされました(36-37節)。
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センナケリブ王は退却を余儀なくされましたが、それはユダのヒゼキヤ王が自力でアッシリアを打ち負かしたからではありません。ヒゼキヤ王は無力の極みにあって、ただただ主なる神様に救いを祈り求めただけです。センナケリブ王の撤退は、主なる神様の永遠のご計画と、それを実行する御力によることなのです。
この一連の出来事からは、「主なる神様のご計画と御力はすごい!」ということが分かります。主なる神様こそ、世界中を支配しておられる本当の神様であられ、アッシリアが非の中に投げ込んだ偶像に過ぎない神々とは全く違う御存在なのです。無力の中に留まっていたヒゼキヤ王とユダ王国が、大国アッシリアに屈せず、存亡の危機を乗り越えたことは、主なる神様こそ本当の神様であるということの証しとなりました。
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ヒゼキヤ王は確かに、主なる神様に対する罪を犯しましたが、それを悔い改めて、今一度主なる神様に100%依り頼みました。私たちキリスト者も、かつてイエス様を知らなかった頃、イエス様の福音を受け入れようとせず、神様に対して罪を犯しました。(キリスト者となった今でも、主なる神様以外の何かに頼ってしまうという罪を犯すことがあります。)しかし神様は、罪人である私たちを見棄てられません。ですから、無力で、自力ではどうしようもできない絶体絶命の危機にあっても、ヒゼキヤ王がそうしたように、主なる神様の憐れみに希望を置くことができます。主なる神様の憐れみは、主イエス・キリストによってはっきりと表されました。イエス様の十字架の贖いによって、無力な私たちも、主なる神様のご支配の中で滅びずに生きることができるようにされました。主なる神様は、私たちを罪に引きずり込むサタンをも支配しておられるので、その御力によってサタンを退却させ、しまいには必ず滅ぼしてくださいます。その約束を、私たちは聖書全体において頂いています。ヒゼキヤ王とユダの人々が、「主が必ず我々を救い出してくださる」という預言を信じて、センナケリブの退却を待ち続けたように。私たちも、サタンの退却と破滅を、主なる神様の御力だけに依り頼んで待ち続けます。
(定住伝道者 伊藤築志)
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