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日本キリスト改革派 田無教会

2022年12月11日「謙遜な者をたたえる歌」主日礼拝(アドヴェント第三主日)

  • 聖書箇所:ルカによる福音書1章39-45節

 

先週は1:26-38の御言葉から、おとめマリアが「主のはしため」として献身の決意を固めたいきさつを分かち合いました。マリアの態度は主の御言葉を受け入れる謙遜な態度でした。

マリアはすぐに行動に移りました(39-40節)。マリアの家から「山里のユダの町」までは直線距離で少なくとも100kmほどです。(参考:田無から甲府盆地までが100km弱。徒歩4日?)12歳のおとめにとって長くつらい旅。彼女の献身への決意の堅さが読み取れます。

マリアが目指したのは、ザカリアの妻エリサベト(1:5-25に登場)のところです。ザカリアはエルサレム神殿に仕える祭司です。この夫婦には子どもがなく、二人とも既に年をとっていました。ある日ザカリアは、天使ガブリエルの訪問を受け、高齢の妻が男児を身ごもったことを告知されました。マリアもまた、自身の受胎告知をガブリエルから受けた際に、彼女の親類であるエリサベトもまた身ごもっていることを知らされていました。

ザカリアの家に到着するとまず、マリアはエリサベトに挨拶(おそらく「こんにちは」程度)をしました。エリサベトがその挨拶を聞いた時、のちにヨハネと名付けられる彼女のお腹の子がおどり(=胎動)ました。ユダヤの伝統では、胎児の胎動は本人についての神様のご計画を表現するものと理解されます。たとえば創世記25:21-23。リベカの胎内で双子(エサウとヤコブ)が「押し合った」胎動は、のちに「争う」ことになるという彼らの人生についての神様のご計画を表現すると理解されました。ヨハネの胎動も、のちにイエスを「喜ぶ」彼の人生についての神様のご計画の表現であると理解されました(44節「喜んでおどった」)。ちなみに、ヨハネはじっさいにイエス様を喜ぶ者となります。(ヨハネ3:29)

エリサベト自身も「聖霊に満たされて、声高らかに言った(=直訳:大きな 大音量の叫び声において 声高らかに呼びかけた)(41-42節)」。くどい強調表現から、エリサベトがとにかく大きな声でマリアに語りかけたということが読み取れます。マリアからは「こんにちは」と挨拶されただけであるにもかかわらず、エリサベトはマリアと出会った瞬間に「このお方は、わたしの主のお母さまだ」と理解できました。エリサベトにこのような理解を与えたのは、ヨハネをおどらせた聖霊です。エリサベトも聖霊に満たされて、神様の御心を表す預言をしたのでした。

彼女はマリアに対して祝福の言葉をかけます(42節:「あなたは女の中で(最も)祝福された方です」、45節「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」)。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」とは、マリアのことを指しますが、それはマリアが受胎告知を信じて受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように(38節)」と献身を誓ったことに対応します。詳しい事情を知らなかったはずのエリサベトがこのように大声ではっきりと祝福を述べることができたのは、彼女の言葉が聖霊に満たされた預言だったからこそです。つまりこの時、聖霊なる神様御自身が、エリサベトの口を用いて、謙遜に自分の役割を受け入れたおとめマリアへの祝福の宣言をされていた、ということです。

ところで、「謙遜な者は幸せ」なのでしょうか。聖書が示す最も謙遜な人物はイエス・キリストですが、彼は謙遜であったがゆえに、生まれたときは飼い葉桶、死ぬときは十字架上という人生を送られました。人間の価値観では、我が子をふかふかの寝床に寝かせてやりたい/自分自身も死ぬときは布団の上でと願うものです。その価値観に照らせば、イエスの人生は幸せから程遠いものです。幸せと言われたマリアも、イエスを産み育てるにあたって苦難に直面します。イエスも、マリアも、謙遜である限り、自分の幸せを捨てる覚悟をせねばなりません。そういう意味で、「謙遜な者は幸せ」という言葉は夢見がちで薄っぺらな言葉に聞こえるかもしれません。

しかし、人間の「生きる意味」というものを聖書に基づいて考えるとき、「謙遜な者は幸せ」という言葉の意味が違って聴こえてきます。人間は、布団の上で息を引きとるために生きるのではありません。聖書の登場人物はそれぞれに、主なる神様から与えられた役割を果たすために生きていました(ヨハネはイエスを喜ぶこと、マリアはイエスを産み育てること、イエスは人間の罪を背負って十字架に死ぬこと…)。それぞれ、自分の考えに基づく「目の前の幸せ」を二の次にしても「神様のご計画に従うこと」を優先するという謙虚な姿勢で生きたことで、その役割を果たしました。イエス様は、そのような生き方こそが「幸い」なのだとお教えになりました(11:27-28)。まさに、人間の幸せとは、「思い通りに生きて、布団の上で息を引きとる」ところにはなくて、「神様の御言葉に対して謙遜・従順に生きる」というところにあります。

マリアは告知された自身の役割を理解し、謙遜に従ったので、神様から(エリサベトの口を通して)「あなたはなんと幸いでしょう」との宣言を受けました。

では、私たちの人生の役割とは何でしょうか。イエス様は「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である(11:28)」と仰いました。「神の言葉を聞き、それを守る」ことこそ、私たち人間が人生をかけて果たすべき役割なのです。その人生によって、私たちは幸せを得ます。

私たちには神様の御声が聴こえないので、「聞き、守る」ことができず、不幸な人生しか歩めません。イエス様が、その不幸で罪深い私たちが御言葉を理解できるようにと、地上にお生まれになりました。そして神であられるのに、敢えて、ふかふかの布団とは無縁の人生を歩まれました。私たちは自分の幸せを「布団の上で息を引きとる」レベルのことに置いていられるでしょうか? イエス様が私たちを聖書の真理をおぼろげながらにも理解でき従える「幸せな者」にしてくださったのですから、そのことに感謝しながら、御言葉に従う生き方に邁進してまいりましょう。そして、聖霊の御力を受けて、幸せを追い求めて空しい気持ちになっている人々に、本当の幸せを告げて歩みましょう。聖霊の御力を祈り求めます。


(牧師 伊藤築志)

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