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日本キリスト改革派 田無教会

2022年4月17日「イエス・キリストの復活と私たち」イースター礼拝

  • 聖書箇所:マタイによる福音書28章16-20節

 

イースター(復活祭)おめでとうございます。

イースターはイエス様のご復活を記念する特別な日曜日ですが、そもそもキリスト教安息日が日曜日になったのは、イエス様が週の初めの日(日曜日)に復活されたからです。それまでユダヤ教安息日(土曜日)を堅持していたイエス様の弟子たちが、従来の伝統を断ち切ってでも安息日を日曜日に変えてしまったのは、イエス様のご復活がそれほどまでに決定的かつ衝撃的な出来事だったからです。イエス様のご復活が決定的であったことは、弟子たちの手による新約聖書の記述にも反映されています。むしろ新約聖書は、イエス様のご復活の事実を宣べ伝えるために記されたのだと言えます。(一コリント15:14「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」)。キリスト教の存在理由は、イエス様のご復活が事実だと言うことにあります。

聖書によれば、イエス様は金曜日に十字架上で死なれ、その日のうちに葬られました。(火葬ではなく、土葬です。)墓の入口は封印され、番兵が置かれましたので、遺体を盗み出すことは不可能です。しかし三日目の日曜日の朝、地震が起き封印のあった石が動いて、墓の中が空っぽであることが分かりました。弟子たちが盗み出したからではなく、イエス様がその体をもってご復活になったからです。イエス様は弟子たちに会うため、婦人たち(マグダラのマリアともう一人のマリア)に指示をして、ガリラヤへ行かれました。

ガリラヤでイエス様に会ったイエス様の弟子たちは、イエス様にひれ伏しました。イエス様を神様として崇め、かつての信仰(16:16)を回復したのです。しかし「疑う者もいた(17節)」とも記されています。ここでの「疑う」は、半信半疑という意味です。確かに信仰が復活した弟子達であってもなお、最初はイエス様のご復活を信じきれず、受け入れきれません。2022年の私たちも、「イエス・キリストの復活」と聞いた時は最初は信じられず「どこか遠い世界の出来事だ」などと思いがちだったかもしれません。しかし、復活の主イエスを目の当たりにした弟子たちにとって、イエス様のご復活は疑ってもなお最終的には否定できない現実でした。

未だ半信半疑状態の弟子たちに、イエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられました。

ご復活なさったイエス様は今や、天と地の一切の権能をお持ちです。「天」は「神様が人間と共にいる状態やその領域」です。イエス様は天と地の一切の権能をお持ちですから、人間が地から去らねばならない「死」に対する権能をもお持ちです。死者を天の御国に招く神としての権能を、神の力によって復活し死を滅ぼされたイエス様はお持ちなのです。

そのイエス様は、11人の弟子(使徒)たちに「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。使徒たちは、“すべての民族”を、永遠の命を与える権威を持つお方の弟子とするために遣わされます。弟子とする手段は、「①行く」こと、「②父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」こと、「③イエス様が弟子たちに命じておかれたことをすべて守るように教える」ことです。授洗(②)は、受洗者を三位一体の神様(=存在自体が愛であられるお方)の関係者にすることです。神様に愛される関係者にされた人を、使徒たちは教えます(③)。「イエス様が弟子たちに命じておかれたこと(=新約聖書にその内容が記されています)をすべて、守る(=知識として知るだけでなく、実践する)」ように教えるのです。洗礼を授けられて神様との交わりの中に入れられた人は日々教えられて、日々イエス様のお命じになったことを実践する、イエス様の弟子となってゆきます。

マタイ28:16-20でイエス様から命じられていることは「すべての民族をイエス様の弟子にしなさい」です。この命令は直接には11人の使徒たちが受けましたが、この命令を守るよう教えられる、後の世代のキリストの弟子である私たちも、この命令を受けていると言えます。

イエス様の弟子になるとか、命令を守るとか、そういうのは窮屈だなと思ってしまうのが、人間の罪の性質なのかもしれません。しかし、私たちがイエス様の弟子になってあげるのではありません。私たちはイエス様の呼びかけに、弟子として応答させていただくのです。先週の受難週に思い巡らしたように、神様に背く性質を持つ私たち罪人は罰として神様に見捨てられて滅びるべきだったのに、イエス様がその刑罰を代わりに負ってくださったのです。そのイエス様が、復活なさって「弟子になりなさい。関係者になりなさい」と招いておられます。本来、それにお応えする価値のない者が、招かれている。イエス様の復活によって、そういう形で、滅びからの救いが私たちにもたらされているのです。

イエス様は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださいました。「わたしは…いる(エゴー…エイミー)」という定式は、聖書では神の名乗りを表します。世の終わり(歴史の完成の日)まで共にいてくださるイエス様は、神様なのです。歴史の完成の日に向かって、いつも、毎日、一日も欠かさず、神様が共にいてくださいます。イエス様のご復活の喜び・キリスト教の存在理由は、この点にあります。死を滅ぼし、永遠に生きておられる神様が、いつも一緒にいてくださいます。私たちは一日一日を、神様と共に積み重ねてゆきます。そればかりでなく、死を迎え地上を離れても、天の御国でも神様は共にいてくださいます。肉体はいずれ朽ち果てますが、世の終わりの日(それは地球滅亡の日ではありません!)、死んだはずの体が復活して霊肉ともに神様と共にいるということが実現します。イエス様のご復活は、私たちの復活の希望を先取りして指し示す事柄でもあります。イースターはこの希望の祭りです。


田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

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