検索
  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年7月31日「主において喜ぶ、安全な信仰」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章1-11節

 

フィリピ書1章と2章では、教会が「福音を進展させる」という働きのために一致することが勧められていました。使徒パウロは、福音の進展をこの上なく喜びました。そして、パウロと共に喜ぶことを、フィリピの信徒たちにも勧めていました。3:1でも、「主において喜びなさい」という勧めが繰り返されています。「主において」とは、直訳では「主の内側で(in Load)」という意味です。私たちが「主の内側にいる」ということは、「主に結び合わされている」ということです。つまり、「主において喜ぶ」とは、イエス様と共に、またイエス様に結び合わされた兄弟姉妹たちと共に喜ぶことです。教会は、主に結び合わされた一枚岩です。ここでは、教会という一枚岩がイエス様と結び合わされていることを喜ぶように、と勧められているのです。

1節でパウロは「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なこと」なのだとも言っています。「同じこと」とは、直前の「主において喜びなさい」という勧めかもしれませんし、直後のユダヤ主義者らを警戒することの勧めかもしれません。当時の教会には、救われるためにはキリストの贖いの他に、ユダヤ教伝来の律法を遵守することも必要だと主張する「ユダヤ主義のキリスト者(ユダヤ主義者)」らが入り込んでいました。パウロは「キリストを救い主として信じるだけで救われる」という福音を説いていましたが、ユダヤ主義者らの主張は福音を揺るがす危険なものです。

2節には「あの犬ども」「よこしまな働き手」「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」を警戒するようにと記されています。「犬」は、軽蔑すべき獣と見られており、神の民を自負するユダヤ人が異邦人を差別的に表現する時に使った表現です。マケドニアにあるフィリピ教会員の多くも異邦人だったでしょうから、ユダヤ主義者から陰口で「犬」と呼ばれていたかもしれません。しかしパウロは逆に、ユダヤ主義者らを「犬」と呼んで、彼らを強く警戒するように勧めます。

「よこしまな働き手」とは、教会内の奉仕者として教会員の信頼を得ながら、ユダヤ主義的主張をして教会を惑わす人たちのことです。パウロは、彼らをも警戒するようにと勧めます。

「切り傷に過ぎない割礼を持つ者」にも警戒が必要です。割礼とは男性の性器の皮膚を切り取る儀式で、旧約聖書においては「神の民」のしるしとされました。ギリシア語で「ペリトメー」と言います。しかしパウロはここでは、割礼に固執するユダヤ主義者らへの皮肉を込めて、「ペリトメー(割礼)」をもじった「カタトメー(切り傷)」という言葉を用いています。

ユダヤ主義者らに惑わされると、キリストに結び合わされた一枚岩である教会が危険な状態に陥りかねませんので、パウロは彼らへの警戒も口酸っぱく繰り返したようです。フィリピの信徒への手紙ではその勧めは1回だけしか書かれていませんが、我々の知らない手紙か、あるいは口頭によって、繰り返し勧められたのだと思われます。

3節でパウロは「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼(ペリトメー)を受けた者です」と言います。3節で言われる「肉」というのは、「イエス・キリスト以外の一切」のことです。肉(律法や割礼)に頼るのではなく、キリストにだけ頼る者が、「真の神の民」なのです。

パウロが肉に頼らないことを教えるのは、パウロが肉に頼ることができないからではありません。彼は肉的には、他のユダヤ主義者らをしのぐ、華々しい経歴の持ち主です。彼は生まれながらのイスラエルの民(しかもベニヤミン族!)で、一流の教育を受けた品行方正なエリート取締官でもありました。(5-6節)パウロはその経歴に頼って、影響力のある人物として生きることもできたはずですが、彼はそれを「損失」「塵あくた」と見なしています。パウロは、自らも持っていた「肉」における華々しい経歴を利用して、フィリピの信徒たちに、キリスト以外の一切を誇ることの醜悪さ・有害さを教えようとしているのです。

パウロが肉の一切を塵あくただと考えるようになったのは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」の故です(8節)。彼は「わたしの主」という表現によって、イエス様との親密な関係を強調しています。キリストを知ることは、キリストと親密な関係になることです。イエス様は、十字架上で死んで復活なさるという、爆発的な力を帯びて生きておられる方です(10節)。イエス様と親密になり、その威力をその身で感じた時、パウロはその素晴らしさの故に、これまで頼っていた肉的な一切を損失・塵あくたと見なすようになったのです。

パウロが、肉的な一切を塵あくたと見なすのは、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるため」です(8-9節)。「キリストの内にいる(in Christ)」というのは1節の「主において」と同じ表現で、キリストに結び合わされていることを表わします。キリストと結び合わされた者は、キリストの死と復活にも結び合わされます。聖書によればキリストの再臨の時、人は皆、復活します(使徒24:15)が、キリストと結び合わされて死んだ者はキリストと結び合わされて復活し、神といつも共にいる(救われる)ことになります。その救いの約束を頂いているのが、「真の神の民」です。パウロはその「死者の中からの復活」を切に求めています(11節)。

パウロが言うには、キリストでない一切は塵あくたです。キリストの贖いに加えて律法遵守が必要だと説くユダヤ主義的主張も、キリストに結びついていない塵あくたです。もしも教会内にそのような考えが入り込むならば、キリストによって結び合わされた一枚岩が綻び、崩壊します。ですからパウロはいささか強い言葉を用いて、繰り返し、ユダヤ主義者への警戒を勧めます。私たちの教会にも、肉に頼る価値観が入り込む危険がありますので、常に警戒しなければなりません。もしそのような塵あくたが根付くと、キリストと結び合わされていた教会は崩壊し、献金や奉仕に急き立てられてカルト化する危険があります。私たちはキリストだけに頼ることで、健全に、主にあって喜びながらの、安全な信仰を保ちます。 


定住伝道者 伊藤築志

閲覧数:24回