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日本キリスト改革派 田無教会

2022年9月18日「満足する、を学ぶ」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章10-13節

 

先週の聖書箇所(4:8-9)からは、キリスト者がこの地上において浮世離れせずに生きることの必要性を学びました。「浮世離れしない」ことの一つは、地上における美徳にも心を留めて生きるという、精神的なことです。もう一つ、具体的な生活(経済活動・職業生活・学校生活など)においても浮世離れせず、むしろ社会と関わり合って生きるということも、キリスト者には求められます。キリスト者が美徳を心に留める時に「主に結び合わされていること」を意識するのと同様に、具体的生活においても「主に結び合わされていること」を意識することができます。

パウロは4:10以下において、エパフロディト(2:25)が携えてきたフィリピの教会からの贈り物に対する感謝を述べています。しかしパウロは、その感謝を直接的な言葉では表現しません。まず、彼が感謝しているのは、贈り物そのものにではなく、その背後にある「信徒たちの心遣い」にです。さらに彼は感謝を、「主において非常に喜んだ」という表現で示します。

さらに10節には、「ついにまた表してくれたことを非常に喜ぶ」と書かれています。これは、最初に別の贈り物があって、その次に相当の期間をおいてから、エパフロディトによって届けられた贈り物があるということを示します。パウロは、フィリピの信徒たちの心遣いが、相当の期間をおいたのちに再び表されたことを、主において非常に喜んでいるのです。パウロはここでは「相当の期間」があったことについて、信徒たちを責めるつもりがありません。彼は、「フィリピの信徒たちには、エパフロディトをよこすまでにも、『心遣いを示したい』という気持ちがあったけれども、残念ながらそうできる機会がなかった」ことを承知していました。フィリピの教会にとって、最初の贈り物から次の贈り物までの間に相当長い期間、心遣いを示すことができなかったことには、歯がゆい思いがあったことでしょう。パウロはそのことを承知しているので、彼らを咎めません。彼はかえって、「その『相当の期間』を経てなお、信徒たちの心遣いをパウロにも伝わる形で再び表すことができたことについて、非常に喜んでいる」と表明するのです。

さらにパウロは、「物欲しさ(=欠乏・窮乏によってねだること)にこう言っているわけではない(11節)」と言います。彼が贈り物をではなく心遣いを喜ぶのは、彼が必ずしも支援を必要としていないからです。つまり、「彼は支援を受けても受けなくても、使徒としての働きを続けられる」ということです。支援がなければその働きができない、というわけではありません。そのことは、11節後半の御言葉によってわかります。彼は贈り物を受け取ればそれに満足できるし、贈り物を受け取れなくてもそれはそれで満足できる(A)、というわけです。

パウロが喜んでいる「心遣い」は、フィリピの信徒たちがパウロの宣教活動と一緒になってくれていることの表れです。教会のあるべき姿はキリストに結び合わされた共同体として「一つになり、心を合わせている」姿です。それは精神的に一つになるだけでなく、具体的な営みにおいても、キリストがおられる同じゴールを目指して一つになって走る姿です。場所はそれぞれ異なりますが、パウロとフィリピ教会が一つになれたことの表れが、フィリピ教会の示した心遣いであり、贈り物であったわけです。だから、パウロはその「贈り物」を非常に喜んだのです。

先に挙げた(A)部分について、付け加えます。パウロが12節で記したことについて、「空腹のときの対処法」や「物が不足している時の対処法」については、サバイバル術のようなことが容易に思い浮かびます。しかし、「満腹している時の対処法」や「物が有り余っているときの対処法」というのは少しピンと来ません。満腹しているなら、それでよくないですか? 物が豊富であれば、それでよくないですか? しかし、パウロは違う考えを持っているようです。というのは、彼は「豊かに暮らすすべ」というのも簡単ではないと考えているようなのです。「豊かに暮らすすべ」は、「物が豊かに手に入ってもそれを少しも無駄にせず使うすべ」と言い換えられます。また逆に「貧しく暮らすすべ」は、窮乏のときにも「必要なものが揃わないから」と嘆いて働きを止めてしまわずに、むしろ謙虚になって、最低限のもので最大限の効果を生み出すためのすべです。パウロはそのすべを「秘訣」と呼びます。この「秘訣」は、イエス・キリストから授かる秘訣です(13節の「わたしを強めてくださるお方」は、キリストのことです)。パウロはこの対処法についても、徹底して、キリストと結び合わされていることを意識しています。

その秘訣とは何でしょうか…。その秘訣はイエス様から伝授されることなので私からは言えませんが、言えることがあるとすれば、その秘訣はキリストと結び合わされてこそ習い覚えることができる、ということです。パウロは牢獄で行動を制限され苦しめられてもなお、キリストの福音を宣べ伝えるためのあらゆる手段を講じることができました。それは、神によって、キリストの喜びとパウロ自身の喜びが結び合わされていたからです。キリストと結び合わされたパウロは、そうして、置かれた境遇に満足することをイエス様から習い覚えることができました。

教会員の「感謝と献身」が具体化した結果が、教会会計報告の感謝献金の項に反映しています。金額の大小に関係なく、私たちはその裏にある「感謝と献身」を喜んでよいのです。もし献金額が予算未達でも、キリストに結び合わされた私たちは、お金が有ろうが無かろうが関係なしに神様を礼拝し福音を宣教できる秘訣をイエス様から授かるので、気落ちする必要がありません。予算達成でもそうでなくても、私たちは神様に精一杯の賛美をささげましょう。

献金だけのことではなく、キリストに結び合わされている中で、私たちは「どんな境遇に置かれても、そこで満足すること」を学びます。キリストに結び合わされていることこそ、私たちにとって最も満たされた状態です。その喜びを社会生活の中で表現していくことも可能です。社会の中で証しされた「キリストの愛」「救いの恵み」に触れたら、それを大いに喜びましょう。また私たちも、可能な時には喜びと感謝を表現しながら歩みましょう。


(定住伝道者 伊藤築志)

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