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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年3月27日「愛なる神と共に生きよう」主日礼拝

  • 聖書箇所:ルカによる福音書10章25-37節

 

 「はじめてのキリスト教の思想」みたいな入門書はないね、と言われることがあります。そうかもしれません。なぜなら、イエス・キリストは、道徳や思想を説いたお方ではなかったからです。キリスト教思想から何か生きるヒントだけを得ようという考え方は、そぐわないのだと思います。むしろキリスト教は、入門のところから、その核心部分に触れなければならないように思われます。

 しかし、キリスト教を「何か役に立つ思想」を教えるものだと勘違いすることは、今に始まったことではありません。イエス様が地上で活動されていた2000年前にも、そのような勘違いはありました。10:25に登場する「律法の専門家」は、その勘違いをする人の典型例です。彼は、ユダヤ人が神様から与えられて代々守って来た「律法」を、「神様から慈しみを受ける」ためのマニュアルのようなものだと考えて、その内容を研究していました。何をしたら/どのように振舞ったら、律法に違反しないのか。あるいは、よりハイレベルに律法の要求をクリアできるのか。そのような問いが、彼の頭の中にはありましたし、他の律法の専門家たちもそのようなことを考えていました。

 イエス様は、律法の専門家ではありませんでしたが、律法をくださった神様について、そして救いについての教えを宣べ伝えておられました。そして多くの注目を集めていました。イエス様につき従う人たちもいました。律法の専門家は、そんなイエス様を試そうとして、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問います。イエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読むか(解釈するか)」と問い返されますが、その問答・対話を通して、永遠の命を受け継いで命を得るためには、律法の通りに行いなさいとおっしゃいました。律法の専門家は、その点では反論はありませんでした。だから、イエス様を試して揚げ足を取ろうとした律法の専門家としては面白くありません。彼は質問を重ねます。「では、わたしの隣人とは、誰ですか。」この質問に、彼の勘違いがあらわれています。本当は、律法(と、律法をくださった神様のお考え)は、愛する対象である「隣人」に範囲をもうけ、人を選り分けるものではないからです。

 イエス様は、律法の専門家の勘違いを正すため、一つの物語をお話しになりました(30節~35節)。エルサレムからエリコまでの山道の途中、追いはぎに襲われて倒れている人がいました。同胞(ユダヤ人)の聖職者である祭司とレビ人は道の向こう側を通過して行ってしまいましたが、ユダヤ人と敵対していたサマリア人のある人が通りがかると、倒れている人を憐れんで、手間もお金も危険も顧みずに彼を介抱しました。イエス様は、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家に問われます。そう問われたとき、律法の専門家は自分の勘違いに気づきます。隣人は「~~である」というものではありません。「~~になる」ものだからです。隣人に範囲があるという考えのもとでは、敵対していたサマリア人は隣人の範囲からまっ先に除外されるでしょう。しかし、その一番遠い存在だったサマリア人でさえ、隣人「になる」場合があるのです。隣人には範囲がありません。律法の専門家は、イエス様との対話を通して、その考え方が変わり、律法に対する理解がより一層深まりました。律法の精神を理解し、それを行うことができるようになったのです。それは、彼にとって命を得ることにつながる出来事でした。

 イエス様は道徳を説かれたのではありません。律法が説く隣人愛が、道徳やマニュアルのようなものではなく、人格的な交わり〔愛し合うということ〕に基づくものであることをお教えになったのです。イエス様はそれを言葉だけでお教えになったのではなく、実際に(敵対的だった)律法の専門家の隣人となられることによってもお示しになりました。イエス様は、私の/あなたの隣人にもなってくださいました。神様を見ることができず、神様を知らず、神様に背いてばかりで神様との関係が立たれてしまっていた私たち(そのままでは慈しみによる命は得られず、滅びるばかりでした)を憐れみ、隣人となってくださったのがイエス様です。イエス様はエルサレムの都に向かう旅の途中でした。その旅は、つき従っていた弟子たちも皆いなくなり、罵声を浴びせられながら十字架の上で処刑される、孤独の極みの死に向かう旅でした。孤独のうちに滅びなければならなかったのは、神様からの慈しみを受けられない私たちであったのにも関わらず、その死を代わりに負ってくださったのです。そうして、イエス様が神様と私/あなたとを和解させ、神様との人格的な関係を今一度結べるようにしてくださったのです。結果、私たちの傍らにはいつもイエス様がおられ、神様がおられます。地上の生涯の終わりを迎える時も、神様との愛の交わりがありますので、独りで滅びるということにはなりません。イエス様は、そのために命を捨てる旅を続けておられたのです。それが、私の/あなたの隣人となってくださったイエス様が示してくださった愛です。キリスト教は、その人格的な交わりを教えているのです。

 ですから、キリスト教の思想の上澄みだけを学んで人生に活かそうとするのは、やはり違うと言わねばなりません。上澄みを汲み取ろうとするなら、もっと深いところ(神様と人格的関係を結び、愛し合うということ)まで汲み取らなければ、キリスト教は意味がありません。神様が人格的に私たちと出会い、隣人になってくださって、私と/あなたと共に歩んでくださるということを覚えましょう。そのことが信じられるように、共にいてくださる神様に祈りましょう。


田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

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