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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年5月29日「地上の星」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章12-18節

 

先週は2:6-11節(原始キリスト教会の賛美歌)から、キリストこそ私たちが従うべき神様であるということを再確認しました。使徒パウロは1章から2章にかけて、天の御国の市民として神様に対して従順に生きなさいと説きます。従順であるためには、利己心や虚栄心を手放さなければなりません。パウロはそう教える中で、従順の模範としてキリストを提示したのです。パウロは馴染みの賛美歌を例に挙げて、「こんなキリストを、あなたがたは信じてキリスト者になったのでしょう?」と、フィリピの信徒たちを初心に戻したのです。

初心に帰ったフィリピの信徒たちに、パウロは「わたしの愛する人たち」と親しく呼びかけ、従順についての勧めをさらに展開します。

「自分の救いを達成するように努めなさい」という言葉について、ここでの「達成するように努めなさい」の主語は複数形(「あなた方は」)です。また原語は「自分の(救い)」も複数形(「自分たちの(救い)」)です。ですからこの言葉は、個人でなく共同体への勧めなのだとわかります。共同体の救いとは何なのかというと、それは共同体が本来あるべき状態に回復することです。教会の場合は、利己心や虚栄心から離れて、神様に従順でいるという状態でいることです。ですから「自分の救いを達成するように努めなさい」は、単純に言えばとにかく神様に対して従順でいることの勧めであると言えます。

また、「恐れおののきつつ」とも言われています。これは従順に仕えるべき神様に対する畏敬の念や緊張感を持つということです。神様の御前で抱く緊張感は、家族と暮らすときに持つ緊張感に似ているかもしれません。独り暮らしだとある程度気ままな生活でも大丈夫かもしれませんが、家族と暮らすときには、家庭内にルールを作って、家庭内に秩序を作り、ある種の緊張感をもって生活するものです。家庭内でそれぞれが気ままに過ごしているよりも、ある種の緊張感がある方が、かえって快適に、家族みんながリラックスして暮らせるものだと思います。そういう緊張感は、心地よいものです。天の御国の市民権を持つ者の場合は、そういう心地よい緊張感を持って、神様に恐れおののいているということが、あるのだと思います。パウロは、神様の御前で気ままに生きるのではなく、神様に対する恐れおののきという緊張感を持って生活しなさいと教えているのです。

フィリピの教会が「神様に対してある種の緊張感を持ちつつ、従順でいる」ことができるという根拠は、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神だから(13節)」という点に見出せます。教会は、神様を礼拝し福音宣教をするための団体です。人間の利益ではなくて神様の利益のために組織された団体です。ですから教会での礼拝式に参加したところで、(この世的には)何の利益も期待できないはずです。しかし、礼拝者は誰かに強制されなくても礼拝を守るために教会に集まります。なぜなら、神様が信仰者に働きかけて、「礼拝したい」という志を持たせ、実際に礼拝させておられるからなのです。神様がそのように働きかけてくださるから、教会は恐れおののきつつ従順に礼拝を守り続けられるのです。

「不平や理屈」を言うことは、従順とは逆の姿勢です。出エジプト記16:3(旧約119ページ)にはかつての主の民の不平が記されています。この不平は、神様のせっかくの御業を、自分の欲求と天秤にかけて、否定してしまっているという点で愚かです。パウロは14節で、神様の御業と自分の欲求とを天秤にかけるような愚かなことはしないで従順であれと勧めます。

15節で「とがめられるところのない清い者となり、…非の打ちどころのない神の子として」と言われていることは、不平や理屈を言うという愚かなことをしなければ、周囲から批判される隙のない完全な者となり、神様に「神の子」として認められるということです。神の子と認められた者たちがどこで生きるかというと、「よこしまな曲がった時代のただ中」です。パウロはこの世を、神様との関係が壊れて堕落した者の子孫の世だと言っているのです。そのただ中で、「神の子ら」は星のように輝きます。よこしまな曲がった世の中で輝いて、清い者として目立ちます。彼らは「命の言葉(御言葉)をしっかり保ち」ます(16節)。彼らが輝いて目立つのは、御言葉を目立たせるためです。天の御国の市民の地上での生き方は、地上で御言葉を目立たせます。

フィリピの信徒たちが御言葉を目立たせて輝いているのを見ると、パウロは励まされます。パウロの終わりの見えない福音宣教の業が無駄ではなかったことを、パウロが確認できるからです。そうすると、パウロは地上での歩みを終えて天の御国に入る時、キリストのために働けたのだという誇りをもつことができます。

キリストの犠牲によって神様との関係が回復された者たちの地上での生活は、自分自身を神様にささげる「礼拝」の生活となります。その際にパウロの血が献げられても、それが神様のご栄光のためであるゆえに喜ぶのだとパウロは表明しています。17節と18節では、「喜ぶ」という言葉が4回繰り返されて強調されていますが、その喜びを、彼はフィリピの信徒たちと共有したいと願っています。礼拝は、徹底して神様の利益のためにささげられるものですが、それによって礼拝者がボロボロになるということではありません。礼拝をささげることは同時に、教会の中で喜びを共有すること、神様に従順であることを共に喜ぶことなのです。

キリスト者一人一人は、世の中で目立たない存在かもしれません。神様が私たちの内に働いて、御心に適う志を立てさせ、それを行わせておられるとしても、そうして灯された私たちの輝きは蛍の光ほど小さなものかもしれません。しかし、暗闇のような、光の見えない、よこしまな曲がった世の中で神様に従順であるならば、蛍の光程度でもよく目立ちます。その光によって、御言葉が世に宣べ伝えられます。それがどれだけ目立っているか、自分ではわかりません。使徒パウロでさえ、自分が無駄に走っていたのではないかと悩んだのです。しかし、パウロもまた確実に、神様の御力によって輝いていました。私たちも、特にキリスト者の少ない日本社会のただ中で、神様に礼拝をささげ、神様に従順でいることによって、星のような輝きを神様から与えられます。神様が、そのように生きるように私たちに望ませ、行わせてくださいます。神様のこの御業に身を委ね、従順になって、その灯された輝きによって御言葉の福音がより目立つようにと願いつつ、今週も歩みましょう。


田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

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