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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年5月8日「福音ゆえの苦闘」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章27-30節

 

福音の前進のためなら、自身の苦しみも厭わないパウロ。パウロはキリストとの関係の中で死ぬならそれは利益であるとさえ言いました。だからと言ってパウロは自ら死を選ぶようなことはしません。パウロには一つの覚悟があったのだと思います。神様が生かして下さる限りは、地上で、キリストを宣べ伝えるためだけに生きようという覚悟です。パウロの生きざまは、人間のものさしでいう所の幸せ(裕福・子宝・健康長寿)とは真逆の、それらを求めない生き方でした。パウロは3:20で「わたしたちの本国(ポリテウマ)は天にあります」と言います。パウロは地上とは異なる価値観・天に国籍を持つ者としての価値観をもって、地上に生きていたのです。

パウロはフィリピの信徒たちに「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送り(ポリテウオマイ)なさい」と勧めています(27節)。「ポリテウオマイ」の意味は、「市民として生活する」です。キリストの福音にふさわしく「天の/神の国」に国籍を持つ市民として生活しなさい、ということが、ここで勧められています。これは、パウロの生きざまそのものです。パウロは、「私のような生きざまは、地上では苦しい思いをするだけだから、違う生き方を模索しなさい」とは言いません。むしろ、地上では苦しい思いもするけれども、パウロ自身と同じ生き方をするようにと、フィリピの信徒たちにも勧めるのです。フィリピの信徒たちが「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る」ならば、パウロの耳には次のような知らせが飛び込んでくるでしょう。;

①フィリピの信徒たちが一つの霊(精神)によってしっかりと立って(前線に踏みとどまって)いること(27節)。信徒たちがバラバラでなく、みんなで福音の最前線に踏みとどまることです。

②フィリピの信徒たちが心を合わせて福音の信仰のために共に戦っていること(27節)。まるでスクラムを組むようにして全員が一致して敵に立ち向かっているということです。 

③どんなことがあっても反対者たちに脅されてたじろがないこと(28節)。

「反対者たち」とは、福音の前進を妨害する者たちです。パウロ同様、福音の最前線に立つときには、反対者たちとの戦いが避けられません。反対者たちからの先制攻撃を受けるからです。しかし、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る人たちは、反対者たちからの攻撃にびくともしません。どんな攻撃を受けても、彼らは一つの精神をもって、たじろがずに、しっかりと前線に踏みとどまるからです。彼らは白旗を上げて降伏したりしないのです。

「このこと(福音の信仰)は、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです」(28節)。反対者たちにとって、信仰者ほど手ごわい相手はいません。信仰者らをどんなに攻撃しても、彼らはびくともしません。消耗戦にもつれ込んでも、消耗するのは反対者の側だけです。信仰は目には見えませんが、信仰という大きな力は、反対者たちに自分の滅びと、信徒たちの救いとを示します。この一連のことは、神様からの恵みによることなのです(28節)。

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために(キリストの代理として)苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(29節)。復活のイエス様は、弟子たちを福音宣教の業へと派遣されました。福音宣教は、それまでイエス様が御自身でなされていた業ですが、復活後はその業を、弟子たちを代理に立ててなされています。イエス様の福音宣教には、十字架の苦しみが伴いました。誘惑もありました。しかしイエス様は苦しみから逃げず、誘惑に乗らず、苦しみを苦しみ抜かれたのです。イエス様の代理として福音宣教の業を行うことは、イエス様の代理として苦しみを受けることでもあります。信仰とキリストのために苦しむことは、両方合わせてセットの、神様からの恵みなのです。

苦しむことが神様からの恵みだという表現は、私たちに、苦しみから逃げてはいけないということをも教える表現なのだと思います。信仰者ゆえの苦しみは、直接には福音の反対者が浴びせかけて来る苦しみです。人間はその苦しみを受けると、信仰から離れることで苦しみから逃げたいと思います。そうすると福音は後退します。それがサタンの策略です。だから、福音の前進のためには苦しみから逃げてはいけないのです。苦しみを、まるで神様からの恵みであるかのように受け取ることが、福音の前進につながります。人間の弱い力では、苦しみを受けるとすぐにつぶれてしまいますが、つぶれてしまわず踏みとどまれるように私たちに与えられているのが、信仰です。信仰があるから、キリスト者はキリストの代理として苦しみに耐えることができます。キリストの代理として苦しむことができるということが、神様からの賜物なのです。

パウロの生きざまがまさに、信仰という力によって苦しみに耐える生きざまでしたが、そのことを「戦い」(30節)と呼んでいます。苦闘です。パウロがフィリピで投獄されて苦闘したことをフィリピの信徒たちはかつて見たことがあり、今もまたパウロが獄中で苦闘してことを耳にしています。パウロは、フィリピの信徒たちが同じ苦闘をしていると言います。フィリピの信徒たちもまた、反対者たちからの攻撃の的となっているのです。彼らの活路は、ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送ることにだけ見出されます。そうすれば、踏みとどまれます。

パウロが言いたいのは、福音に与っている・福音宣教に参加しているがゆえに受ける苦しみから、逃げないでね!ということです。精神を合わせ、心を合わせて共に戦う仲間が、神様によって教会集められました。教会で共に礼拝を守ることは、共に戦う仲間との絆を強めます。会堂・オンラインでの出席者と、欠席者をそれぞれ心に留めて祈り、苦しみに対して共に踏みとどまりましょう。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と聞いて、行儀良いクリスチャンにならなくてもいいです。罪人なのに神の御国の市民とされたことを神様に感謝し、神様から与えられた信仰を携えて、与えられた苦しみから逃げずに、しっかりと立って、共に苦闘しましょう。                                               


田無教会 定住伝道者 伊藤 築志

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