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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年6月19日「主に結ばれている者として」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章25-30節

 

きょうの箇所は4章のうち第2章の最後の箇所にあたります。フィリピの信徒への手紙の真ん中まで読み進めて来ました。手紙の前半でパウロは、互いにへりくだって心を一つにする「教会の一致」を勧めています。パウロはへりくだりの模範としてイエス・キリストを提示し、実際にその模範に倣う者としてテモテとエパフロディトのことを書き記しました。きょうはエパフロディトのことを通して、教会の一致ということを学びます。

エパフロディトはフィリピ教会出身の奉仕者です。フィリピ教会からパウロへの贈り物を携えて行き、そのままパウロの元で彼の宣教活動を助けるために遣わされた「使者」でした。

しかし、彼の働きは順調ではありませんでした。故郷を離れた彼は大きなストレスを抱えたのかホームシックになってしまった(26節)上に、パウロの元で働くうちに大病を患ってしまい、働きを継続できなくなってしまった(27節)のです。

30節を読むと、彼が病気になった背景には、フィリピの教会から遣わされた彼がキリストの福音宣教の業に命をかけるようにして働いたことがあったのだと示唆されています。彼の病気についてこれ以上詳しいことは分かりませんが、もしかしたら彼は過労で倒れてしまったのかもしれません。精神的に参ってしまった可能性もあります。いま、「過労」「過労死」ということが社会問題になっていますが、それは今に始まった現代社会の闇なのではなく、2000年前から存在したのだということを思わされます。

26節後半には彼が「自分の病気があなたがた(フィリピの信徒たち)に知られたことを心苦しく思っている」と記されています。彼は、「本当はパウロの元で活躍することが期待されていたのに、頑張りすぎた結果働けなくなり、そればかりか病人として足手まといになってしまった」というような自分を責める思いを抱いたかもしれません。さらにそのことを故郷にも知られて、慣れない土地で孤独に、心身ともに苦しんでいたことと思います。

しかしそんな彼をパウロは「兄弟・協力者・戦友・奉仕者」と形容し、褒めています(25節)。そのことは気落ちしたパフロディトを励まし、また彼を送ったことでパウロに迷惑をかけたのではないかと心配するフィリピの人たちをも励ましたことでしょう。

神様は、ひん死のエパフロディトを憐れまれ、回復させられました。もと通り元気に!というわけではないにしろ、命の危機を脱し、帰郷の旅に出られるくらいにはなったようです。彼は故郷に戻れば、家族や仲間たちとの交わりの中でさらに療養し、マイペースに主に仕える、言わば「第二の人生」を送ることができます。

そのことによって、パウロは悲しみを重ねずに済みました。エパフロディトが病に倒れたことはパウロにとって悲しみでした。苦しみに寄り添う意味での、また彼に無理をさせてしまったという意味での悲しみです。そのまま彼が死んでしまったら、パウロの悲しみはさらに深まったでしょう。しかし彼に第二の人生が与えられたことにより、パウロもまた悲しみを重ねず住みました。神様の憐れみは、人を再び生かし、悲しみを重ねさせません。

そういう事情のもと、パウロは大急ぎで彼をフィリピに送ります。病み上がりの彼にとっては、厳しい環境で再起するよりも、故郷で養生しながらマイペースに福音宣教の業に参加する方がよいからです。しかしパウロは彼を帰すのではなく「送る(ペンポー)」と表現します(25節「帰す」も、原文は「ペンポー(送る)」)。パウロは彼の帰郷の旅にも、「フィリピの信徒への手紙」をフィリピに届けるという使命を与えたのです。エパフロディトの帰郷はフィリピの人たちが彼との再会を喜ぶことであると同時に、彼が再びできる形で福音宣教に参加することでもあり、パウロの悲しみも和らぐことになります。

他方、志半ばで出戻ったエパフロディトを非難する人がいないとも限りません。パウロはそれを見越して、「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください」と記します。エパフロディトが病気になった背景にはキリストの業に命をかけたこと(30節)があったのですが、それは私利私欲のためでなく、テモテやパウロのようにイエス様のへりくだりに倣ったゆえでした。彼が病気になったのは悲しいことですが、それで彼を非難するのは適切ではありません。いま、フィリピの信徒たちには「主に結ばれたものとして」彼を大いに歓迎することが勧められます。個人的なつながりではなく、主イエス・キリストとの関係において彼を歓迎すべきなのです。

さらに「彼のような人々を敬いなさい」とも勧められます。主への奉仕を頑張りすぎて、かえって奉仕を続けられなくなる人々がいます。そうなってしまうことは悲しむべきですが、そんな人々を主に結ばれている者として大いに歓迎し、また尊敬することが、教会には求められています。

現代の伝道者・奉仕者にも、心身に不調をきたして働きを続けられなくなるリスクがあります。働きを休んだりやめたりする人も少なくありません。そういう人々を再起させ、元の形でなくとも可能な方法で活かす神様の憐れみに期待します。きょうの御言葉を読んだ私たちは、働きを休んだりやめたりしている兄弟・協力者・戦友である人々を「主に結ばれている者として」大いに歓迎し敬いましょう。教会の一致は、そのような所から生まれます。


田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

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