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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2023年4月9日「イエスは墓にはおられない」イースター礼拝

  • 聖書箇所:マルコによる福音書16章1-8節

 

イースター、おめでとうございます。イースターは、「イエス・キリストの復活のお祝い」です。復活は厳密には「死からの復活」ですから、「死に対する勝利・死の克服」と言い換えられます。

死を象徴するものの一つに、「墓」があります。その墓が、死者の体を納めておくという本来の役割を終えたなら、それは死が打ち破られたことの象徴になるでしょう。不当で拙速な裁判の末に十字架で処刑されたイエス・キリストの遺体も、墓に納められました(15:46-47)。

しかし不思議なことが起こりました。白い長い衣を着た若者が、墓を訪れた女性たちに、その墓にはイエスの遺体がないと示したのです。どうして、遺体はなくなってしまったのでしょうか。今日は、御言葉を通じて、納められたはずの遺体が消えたその意味をお話しいたします。

はじめにあらすじを確認します; 「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」という3人の女性たちが登場します。彼女たちは皆キリストの弟子でした。安息日(埋葬ができない日)になる直前にスピード勝負で埋葬されたイエス・キリストの遺体には、簡単な処置しかされていなかったので、彼女たちは安息日明けの朝、太陽が昇って明るくなってから、ちゃんとした処置をするためにと、墓に向かいました。

安息日の直前、墓の入口は彼女ら3人では動かせないほど大きな石でふさがれました。ところが、彼女たちが墓に着いてみると、石は既にわきへ転がしてあったのです。墓の中に入ると、そこにイエスの遺体はなく、一人の若者がいただけだったので、彼女たちは驚きました。

「若者」の正体は明記されていませんが、「白い(=輝くような純白)」衣を着ていたということなので、天使と思われます。聖書によれば、天使に出会うとき、人は驚いたり恐れを抱いたりするようです。当の若者は、「驚くことはない」と彼女たちを落ち着かせようとしますが、彼女たちは落ち着きませんでした。彼女たちは若者からどんな言葉をかけられても、また何を示されても、落ち着くことはありませんでした(6-8節)。実は、キリストの弟子にとって、イエス・キリストの復活ということは今初めて知らされたことではありません。キリストは弟子たちに、繰り返し、「三日の後に復活することになっている」と予告しておられました(8:31、9:31、10:34)。さらに「復活した後、弟子たちより先にガリラヤへ行く」とも予告されました(14:28)。なのに、イエス様の復活を示されても、3人の女性たちは落ち着きを取り戻せませんでした。彼女たちは「震え上がり、正気を失って」おり、「誰にも何も言わなかった(=要領を得て伝えられなかった)」のです。

次にイエス・キリストの遺体が墓になかったことの意味をお話しします; 墓の中が空っぽだったのは、若者が告げた通り、キリストが復活なさったからです。イエスは復活なさったので、もはや、死を象徴する墓にはおられないのです。だから、墓がからっぽだったのです。若者がそうしたように、もはや遺体も何もない空っぽの墓を示すことは、イエス・キリストが「もはや死んでいない」「生きている」ことを示すことでした。

しかしながら、なぜ3人の女性たちは、空っぽの墓を見てもキリストの復活を受け入れられなかったのでしょうか。それは、彼女たちが、キリストの死の現実にすっかり支配されていたからでありましょう。イエス・キリストが息を引きとり、死亡が確認され、埋葬された一部始終を彼女たちは見つめていました。彼女たちは、キリストが完全に死なれたという現実を真正面から受け入れざるを得ませんでした。「キリストはもう死なれた」という事実こそ、彼女たちを支配した現実でした。ですから彼女たちには、キリストの復活の命に向き合う準備がなかったのです。

彼女たちがキリストの復活に向き合うためには、彼女たちをキリストの死の現実から引き戻す大きな転換点が必要でした。その転換点は、復活のキリストと彼女たちが出会うことです(9節)。復活のキリストが御自身をマグダラのマリアに現されると、マリアは「誰にも何も言えなかった」死の支配から解放され、落ち着きを取り戻し、キリストの復活を伝えられるようになりました(10節)。青年が示した、もはやキリストの遺体を納めていない空っぽの墓は、キリストの復活を意味しました。しかし、死の現実に支配されていた者たちには、その意味は分かりませんでした。復活のキリストと会って初めて、マリアは死の支配から解放され、空っぽの墓の意味・若者の言葉の意味を理解できたのです。

もしも、復活のキリストが今も地上で活動しておられたならば、世界中の皆がたちどころにキリストのご復活を現実として受け入れたことでしょう。しかし、復活のキリストは今や天に生きておられますので、私たちが肉眼で復活のキリストを仰ぎ見ることはありません。その代わりに、私たちには聖書の御言葉が与えられています。聖書は(さながら天使と思しき若者のように)キリストの復活を間接的に証言しています。ただし、聖書の御言葉を字面として読んでいるだけでは、(若者からキリスト復活の事柄を聞いた女性たちのように)キリストの復活を理解できません。キリストの復活を喜び、「イースターおめでとう」と喜ぶことは、人間にとって困難また不可能なことなのです。なぜなら、人は皆、生まれながらに死の現実に支配されているからです。

そんな私たちを死の支配から解放してくださるのが、死を打ち破られた救い主イエス・キリストです。キリストが私たちに出会ってくださる時、私たちも(マグダラのマリアのように)死の支配から解放され、復活を事実として受け入れることができるようにされます。イエス様は、聖霊のお働きによって、私たちと魂において、出会ってくださいます。キリストに結び合わされた人生は、死に支配されない、希望に満ちた人生となります。遺体が消えた空っぽの墓は、キリストと出会えて救われた私たちの、死からの解放を示す、喜びの象徴なのです。

あらためて、「イースター、おめでとうございます!」

(牧師 伊藤築志)

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