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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2023年5月21日「主は救われる人を増し加える」主日礼拝

  • 聖書箇所:使徒言行録2章42-47節

 

ペンテコステに受洗した三千人ほどは「仲間に加えられ(41節・直訳)」ました。仲間に加えたのはイエス様です。受洗者たちは単に信仰を得た(内面の変化)だけでなく、教会の仲間に加えられることによって生活も変わりました(外面の変化)。

1章から2章41節までは使徒の言行に焦点が当たった、まさに「使徒言行録」でしたが、42-47節は信者たちの有様に焦点が当たっており「“信者たちの言行”録」とも言えましょう。今週の説教は、新共同訳の段落の区切りとは違いますが、この部分を一度に扱い、救われた三千人の営みについて語ります。

42節は、43-47節を先取りして要約しています。「使徒の教え」は、キリストの証人である使徒の教えです。私たちに与えられた使徒信条(新約聖書の内容が根拠)が、「使徒の教え」の大まかな内容に当たります。当時は新約聖書も使徒信条も成立していませんでしたが、信者たちは使徒たちから直接教えられ、その教えに触れました。

「相互の交わり(コイノーニア)」は、「共に分かち合い・受け取ること」です。詳しくは後程お話しします。

「パンを裂くこと」は、私たちで言う聖餐式のようなものだと思われます。これも後で話します。

「祈ること」は、ほかならぬイエス様の御名によって、天の神様に祈ることです。

注目したいことは、これらに熱心であった教会に対して「すべての人(=教会外の人々)に恐れが生じた」(43節)ことです。(当時)新興宗教であったキリスト教会は、信仰者の寄せ集め団体ではなく、キリストが意図的に形成された、キリスト教信仰のない人々に見過ごされたり笑い飛ばされたりしない、力に満ちた共同体でした。

人々が教会を見過ごしにしたり笑い飛ばしたりしなかったのは、教会の中で「不思議な業としるし(=奇跡。22節参照。キリストの御業)」が行われていたからです。それは眉唾ものの奇跡ではなく、神様の御業と誰もが認めざるを得ない、神様の御心を反映した奇跡です。教会で奇跡が行われたのは、キリスト教会の誕生を人々に知らしめる、言わば「宣伝」でした。教会は人の寄せ集めでなく、キリストの御業が行われる唯一無二の共同体です。今週の御言葉からは、[財産の扱い][共同生活][新たな仲間の入会]に関する御業を読み取ることができます。いずれも人間には為し得ない、キリストの御業によってのみなし得る「不思議な業」です。

[財産の扱い]44-45節。ここに記されているのは私有財産の否定やカルト的な怪しい経済共同体のことではありません。聖書は私有財産を否定しません(5:4)。ここには、自分の財産や持ち物を、惜しみなく打っては施すという、他の共同体とは異なる経済システムが教会内に生じたことが記されています。まるで、全財産を共有にしてお財布を一つにしたかのような惜しみのなさです。これは21世紀の最新の経済とは真逆で、貧富の差が極限まで小さくなるような経済システムですが、人間の性質にはそぐわず、教会内でさえも長続きしませんでした(5章)。このようなシステムが昨日今日キリスト者になったばかりの人々の教会で生じたのはなぜでしょうか。それが神様の御心を示す奇跡であり、イエス様の「不思議な業」だったからです。

[共同生活]46-47節前半。日々同じ皿から一緒に食事をする家族的な共同生活を連想させます。合宿ではなく、地域ごとに持ち寄り愛餐会をしたと言うことです。

愛餐会の特徴は、礼拝に紐づいていたことでした。彼らは旧約伝統に基づく神礼拝を続けつつ、ユダヤ教と離れた独自の礼拝「パンを裂くこと」にも熱心でした。それは食事の前にパンを裂くことですが、イエス様がお命じになった主の晩餐を繰り返すこと(ルカ22:19)であり、キリスト教神礼拝です。それらの礼拝が、喜びと真心をもって、愛餐会と結び合っていました。

愛餐会がそのまま礼拝になるのではありません。失敗例(一コリ11:21)もあります。昨日今日キリスト者になったばかりの人々による愛餐会が礼拝に結び合ったのも、イエス様の御力によることです。「神を賛美し」(47節)も、そのことを強調します。

彼らの共同生活は、民衆全体から好意を寄せられました(47節)。それは、教会の営みが、キリストが世を愛した、その愛の息づく営みだったからです。教会の営みに愛が息づいたのも、イエス様の御業である故にほかなりません。

[新たな仲間の入会]47節後半。教会に新たな仲間が加えられるのは、イエス様の御業によることです。キリスト信徒たちの拠点は、数千人を収容できる大会堂ではなく、市内に点在する家々でした。イエス様は、点在する信者たちを「一つにされた」のです。彼らが物理的な場所を超えて一つになれた・仲間に加われたのも、人間の業ではなく、イエス様の御業によることです。

ここに記されたのは最初期だけの、奇跡が行われていた、教会の特殊な姿であり、今日の教会の状況とは異なります。今日の教会が当時のようではないからと言って、教会の堕落・世俗化と嘆く必要はありません。教会にとって大切なことは、「キリストの御業が行われている」ことと「営みが神礼拝と結び合っている」ことです。私たちの教会の営みに奇跡はなく、説教・交わり・礼典・祈りという通常の手段で営まれます。通常の手段と言えども、これらの営みはすべてキリストの御業です。教会は、人が頑張る共同体でなく、キリストの御業が行われる場です。

「当時の教会で行われたキリストの御業・奇跡は、神様の御心に適うものだ」ということも心に留めたいと思います。格差解消も、愛餐会も、新たな仲間の追加も、神の国の輝きに満ちた有様です。私たちは神の国を地上にもたらしつつある神様にお仕えするために、少しでもあの輝きの有様の方向へ向かうべく、教会の営みに熱心に取り組むのです。

(牧師 伊藤築志)

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