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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2023年7月23日「恵みと平和の共有」主日礼拝

  • 聖書箇所:使徒言行録4章32-37節

 

4:23-31には、聖霊に満たされて大胆に神の言葉(聖書に示された救いの、キリストの御名による証し)を語っていた教会の様子が記されていました。では、教会は神の言葉を語るだけの団体でしょうか?そうではありません。今日の箇所は、教会が、言葉でもその営みそのものによっても聖書に示された救いを証しする群れなのだということを、私たちに教えています。

聖霊に満たされた信者の群れは、「心も思いも一つ(であった)」(23節)と記されています。原文の雰囲気を考えると、彼らは頑張って「一つになった」のではなく、頑張らずとも「一つであった」ようです。その「一つであった」度合いがいかほどのものかと言うと、教会内には一人として持ち物を自分のものだと言う者がいなかったほど、でした。自分の財産に対する独り占めの利己心が誰にも無かった、というわけです。すべての財産は、彼らにとって共有でした。それは各々が(名義上は)私有財産を保有しながらも、まるで共有物であるかのように見なしていた、ということです。「私たちは心も思いも一つだ」ということが行いや態度で示されれば、その教会が本当に一つであることは誰にも明らかです。彼らは財産を共有と見なすほどに、「心も思いも一つであった」わけです。彼らが頑張らずともこれほどまでに一つであれたのは、聖霊で満たしてくださった神様の御力によることです。

教会が神様の御力によって一つであったゆえに、信者の中には、一人も貧しい人がいませんでした。信者の群れが、群れの中で貧困にあえいでいた人たちの必要のために、財産を持っている人がその財産を売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置いていたからです。原文ではこれらの動詞が継続的な事柄として記されています。彼らは財産を独り占めせず、必要に応じて都度都度、切り売りして献金していたのです。

財産を売った人たちがその代金を貧しい人々に直接施したのではなく、一旦すべて使徒たちの足もとに置いていたのは、そのお金によって救いの実現を証しするためです。使徒たちの働きがすべて主イエスの復活(=救いの実現の証し)を証しする働きだからです。貧しい人々がその悩みから解放されることは、地上における、神の救いの現れです(参考黙示録21:3-4)。信者の群れは、財産を共有して一人も貧しい人がいなくなることにおいて、聖書に示されている神の救いを証ししたのです。

もしかしたら、財産を持っていた人たちが利己心から離れて、貧しくて困っている人たちのために財産を売ることができたのも、神の国の救いの現れなのだろうと思います。36-37節で特筆されているバルナバは、キプロス島出身のユダヤ人(レビ族)ですが、彼も土地を売ってその代金を使徒たちの足もとに置きました。恐らく、彼は家族と共に聖書に示された救いを求めてキプロスから神殿のあるエルサレムに移住し、エルサレム近郊に畑を持っていたものと考えられます。家族にとって、彼らの畑は、救いにあずかることの象徴だったことでしょう。そんな大切な畑を売ってしまったことは、彼とその家族が既に救いにあずかり、その畑に執着する必要がなくなったことを物語っています。バルナバによる畑の売却それ自体が、救いの実現を証ししています。

バルナバが大切な畑を売ったのは、救われたことによる心の豊かさと、財産のある物質的な豊かさを、心も思いも一つである群れの人々と共有すると決めたからでしょう。37節の動詞は、一回きりの時制で記されています。バルナバは他の人たちと違い、畑を切り売りせず、一括で売却したようです。彼は、貧しさに悩む人々と豊かさを共有するためには、畑のすべてを売る必要があると判断したわけです。彼の思い切った献金は、特筆事項として使徒言行録に書き残されるに至りました。まさに彼は、貧しかった人を慰め、信仰者の群れと心と思いを一つにした、信仰者の一人だったのです。21世紀に使徒言行録を読む私たちも、バルナバがこのような行いによって聖書に示された救いの実現を証ししたのだということを心に留めたいと思います。

57年前にアメリカの教会CRCによって生み出された田無教会は、2003年7月27日にCRCから巣立ち「教会設立」をしました。教会設立とは教会が健やかに成長するための組織を「設立」したことです。それから20年が経ち、田無教会は今も、健やかな成長のための営みを続けています。きょう4:32-37の御言葉を読んだ私たち(特に田無教会の教会員たち)は、「心も思いも一つである」ことを心に留めたいと思います。教会は頑張って一つ「になる」のではありません。人間の力で一つ「になって」も、それは教会ではありません。教会は神様の御力によって一つ「である」のです。ですから、教会は神様の御力に委ねましょう。頑張りすぎてうまくいった教会はありません。規則による無理強いあるいは洗脳で「すべてを共有する(させられる)」のは、教会の姿ではありません。バルナバがそうであったように、豊かさを分かち合おうとして神様のもとに献げることを惜しまないというのが、神様によって一つにされた、教会の姿です。貧しかった人は貧しさが解消されることによって、そして豊かだった人は豊かさに縛られないことによって、共に聖書に示された神様の救いを証しします。

教会では無理して頑張る必要が無いのですから、「私には献金できるお金がない」「教会のために奉仕する体力がない」「時間がない」からと言ってそのことに悩む必要はありません。ある時・ある人にそういうものが無くても、神様が別の時・別の人にお金や体力や時間を与えて、それらを救いの実現の証しのために教会に献げるようにしてくださいます。教会には祈りが欠かせません。祈ることも教会にとって必要なささげものです。体力がない・時間がない・お金が無いという方も、ぜひ、教会のための祈りを、神様にささげてください。

(牧師 伊藤築志)

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