top of page

2025年3月30日「パウロのクレーム」主日礼拝

  • 執筆者の写真: 日本キリスト改革派 田無教会
    日本キリスト改革派 田無教会
  • 3月30日
  • 読了時間: 5分

更新日:4月19日

  • 聖書箇所:使徒言行録16章35-40節

  • 伊藤築志牧師


「クレーム」という言葉には否定的な響きがあるかもしれません。確かに、店員の人格否定を伴ったり不当要求をしたりする悪質クレーム(カスハラ)もありますが、他方ではやはり正当なクレームもあります。商品やサービスの不手際を正しく指摘する正当なクレームは、その不手際によって困らされる人々を助け、またこれ以上困る人が出ないようにするために有益です。お店でのことではありませんが、使徒パウロも、必要な時には正当なクレームを言いました。フィリピでの宣教中、彼は相棒のシラスと共に、市当局によって、「市内の混乱を招いた」とされ、正当な裁判手続きを経ずに鞭打ちと一晩の投獄という仕打ちを受けました。翌朝、釈放の折に、パウロは市当局の不手際に対するクレームを主張したのです。パウロのクレームは、何のために、どのような形でなされたのでしょうか。そしてその結果、何が起こったのでしょうか。

パウロとシラスに対する仕打ちの、市当局としての大義名分は、「ローマの植民都市としての秩序を守るため、混乱を招く者たちを懲らしめるため」でした。そうであればなおのこと、ローマの法と秩序に則った手続きが求められますが、当局者たちはそれを怠りました。彼らは、正当な手続きを取ることよりも、群衆の騒ぎ(22節)の鎮圧を優先し、拙速に事を進めたのです。

翌朝、当局者 ―高官― たちは2人をひそかに釈放する手続きを取りました。公然と釈放しようとするとまた群衆が騒ぎかねないからです。昨晩信仰者となった看守(33節)は2人に「安心して行きなさい」と言って、主にある平和を祈りながら、穏やかに、釈放を告げます。

ところが、パウロは穏やかに釈放されようとせず、高官たちの不手際に対するクレームを主張したのでした。パウロが強気に出られたのは、2人が共にローマ帝国の市民権を有していたからです。市民権を持っていれば、当局者に物言うことができます。そもそも帝国の法と秩序によれば、帝国市民に鞭打ちの刑を適用してはいけませんでした。しかし2人は、鞭打ちの仕打ちを受けました。高官たちが帝国の法と秩序よりも群衆の鎮圧を優先したからです。この不手際は、高官たちにとって、帝国本体の当局に知られたくない、恥ずべき不手際でした。

パウロはこの時、脅しや、過剰な要求はしませんでした。ただ不手際を指摘し、高官たちが道義上なすべき事柄を要求しただけです。パウロのクレームは正当なものでした。

下役たちからこのクレームについての報告を受けると、高官たちは恐れました(38節)。帝国当局にこの不祥事が知れると、彼らの立場が危うくなるからです。そこで高官たちは、自分でパウロとシラスのところに出向いて来て、2人を牢から連れ出しました(39節)。そのとき高官たちは、2人がへそを曲げてしまわないように「わびを言い(=宥め)」、穏便におさめるよう願いました。それから高官たちは2人に「町から出て行くように頼んだ」のですが、これは2人に反感を持つ群衆らを刺激しないようにとの配慮を願う依頼です。もちろん、有罪でない帝国市民に退去命令は出せませんから、高官たちは「依頼」という形で事を進めました。

2人は、高官たちのわびと依頼を受け入れ、町を出て行こうとしましたが、その前にキリスト者たち(兄弟たち)の集会所となっていたリディア(→14節)の家に寄り、御言葉と、逮捕から釈放までの経緯の報告によって兄弟たちを励ましました。兄弟たちは2人の鞭打ちと投獄に気落ちしていたでしょうが、2人がキリストの平和のうちに釈放されたこと、しかも正当なクレームによって長官たちの不手際を認めさせたうえで釈放されたと聞いて、励まされました。キリスト者は、御言葉と結びついた一つ一つの出来事と、その出来事の裏での聖霊のお働きについての証言によっても励ましを受けます。パウロのクレームの結果、兄弟たちは励まされたのです。

兄弟たちを励ました「パウロのクレーム」の裏にあった、聖霊のお働きとは何でしょう。それを読み解くカギは「正義」です。神様は、正義を追求なさり、主の民を正義のためにお遣わしになるお方です(創世記18:19、詩編37:28,30、116:5、申命記10:17-18)。主の正義とは弱い立場の者を守る正義であり、主の民はその正義の遂行のために選ばれました。主のしもべパウロは、クレームを通して、高官たちの不手際を指摘することで、正義を貫きました。パウロのクレームは、帝国市民権を持たない、市当局に対する発言権のないキリスト者たちが信仰ゆえに迫害され、不当な手続きで虐待されることがないためのクレームです。群衆から反感を買いやすい、市内では弱い立場にあるキリスト者たちを守る、正義のクレームです。弱い立場の者を守る神様の正義に基づく、聖霊の働きによるクレームです。パウロのクレームの裏で、正義の神様は、確かに働いておられたのです。だから、その報告を聞いた兄弟たちは、報告の中に神様のお働きと御栄光とを見いだして、励ましを受けたのです。

キリスト者には、正義に適ったことを行い、必要な時には正当なクレームを言う務めがあります。パウロがもし、イエス様が十字架を忍耐されたことだけに倣って、「忍耐」だけを美徳としていたなら、あんなクレームはあり得なかったでしょう。しかしパウロはそうでなく、主の正義を貫くことを美徳としていたので、言うべきことを言いました。弱い立場の者を権力の暴走から守るために、パウロは、生まれながらに市民権を持ち当局に対する発言権がある者として、その権利を十分に、またやりすぎない程度に行使し、主の正義を貫きました。

私たち一人一人はそんなに大きな力を持ちませんが、例えば日本国籍を持つ18歳以上の人は(キリスト者でなくても)参政権があります。言わば、現代日本における「市民権」です。この権利をどのように用いるかが、キリスト者には問われます。選挙の投票権1票を、自分の利益だけでなく、子どもや、外国人など弱い立場の人たちを守るためにも用いる、という意識が求められるのではないでしょうか。そうやって、キリスト者が祈りつつ一人一人が自分の持てる力を正義のために用い、弱い立場の人たちを守るとき、正義の神様のご栄光が、 豊かに表されるのです。

(牧師 伊藤築志)



 
 
 

コメント


© 日本キリスト改革派 田無教会

当教会は、「統一教会」「ものみの塔」「エホバの証人」とのつながりは一切ありません。

​それらのことでお困りの方は、ご相談ください。

bottom of page