2025年4月27日「あなたのともし火」主日礼拝
- 日本キリスト改革派 田無教会
- 4月20日
- 読了時間: 5分
更新日:5月17日
聖書箇所:マタイによる福音書6章22-23節
22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」 |
聖書に示されたイエス様の教えの話をする前に、しばし、世界の現実に目を向けてみたいと思います。不景気、物価高、戦争、犯罪。解決できずにいる、いやむしろ悪い方向へ進んでいるかのような問題が多くあります。こういった現状において、一つの言葉が思い出されます。
「お先真っ暗」!!
全てが右肩下がりで、将来への希望がない、という意味の言葉です。
聖書は、希望を語る書物です。「希望が見えない、お先真っ暗」のように思われる現実の中で、聖書は、どのような希望を私たちに示しているのでしょうか。私たちは、現実の中で、どのようにしたら希望を見いだせるでしょうか。
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イエス様は、「体のともし火は目」だとお教えになりました。ともし火は、暗闇の中で、行き先の道を照らして示すための光です。しかし、ともし火さえあれば道を踏み外さずに歩ける、というわけではありません。目が機能していなければ ―目隠しをしていれば― せっかくのともし火も無意味です。「ともし火は行き先を示すものだ」と再定義するなら、「体全体に対して“行き先を示す”ともし火」とは、「目」だということになります。
イエス様は続けて、「目が 澄んでいれば、あなたの 全身が明るいが、
濁っていれば、 全身が暗い 」ともお教えになりました。
「目が澄んでいる」とは、物がはっきり見えていて、ピントが合っていること。「(目が)濁っている」は、目が悪いこと、です。私の場合、眼鏡をかけた状態を「澄んでいる」、外した状態を「濁っている」と言えます。
また、「明るい」は、行き先の道をはっきり認識していること。「暗い」は、行き先の道が見えていないこと、です。眼鏡をかけると、道がはっきりわかって「明るい」。外すと、よくわからなくて「暗い」。ということになります。
目がしっかり機能していないと、いくら懐中電灯があって道が照らされていたとしても、体が道を認識できなくて「暗い」状態になります。「暗い」と、闇雲に進んで道を踏み外したり、道なんて無いだろうと立ちすくんだりする危険があります。
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イエス様の教えは、希望に関する教えです。ですから、イエス様はこのたとえ話で「希望を見ること」を教えておられるのです。イエス様は、道を認識するための肉体の器官(目)があると同様、希望(への道)を認識するための器官もある、ということを示唆しておられます。
イエス様は旧約聖書から希望を説き、その教えは新約聖書に刻まれています。聖書は、希望への道を指し示す“ともし火”です(詩編119:105)。でも、聖書によって希望への道が照らし出されていても、お先真っ暗だと思ってしまう時があります。それは、本当に希望がないのではなくて、その人の希望を見るための“目”に相当する器官が「濁って」いて、「暗い」状態になっているからです。「暗い」と、人生を踏み外したり、希望なんてないと立ち尽くすことになります。
聖書は、希望(への道)を認識するための器官を「心」と呼びます。
主〔イエス〕が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの〔聖書の〕話を注意深く聞いた。(使徒言行録16:14。カッコ〔〕内は伊藤による補足。) |
心が開かれると、聖書が照らし出す希望がはっきり見えるようになります。「明るい」状態となるのです。心は捉えにくい器官ですが、私たちが確かに持っている器官です。ただし、それが「濁っている」と、聖書が示す希望を見いだすことができません。しかし、イエス様によって心の視界を開いていただければ、私たちは、希望(への道)がはっきりと見えるようになります。
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イエス様によって開かれた心の視界からは、どんな風景が見えるのでしょうか。イエス様はご自身を、「神様のもとに行くための道だ」と自己開示されました(ヨハネ14:6)。イエス様に心を開いていただいた人が認識するのは、「神様のもとに行く」という希望と、そのための「イエス様という一本道」です。心の視界からは、現実の諸問題も見えますが、そのピントは希望とその道にセットされています。たとえ不景気、物価高、戦争、犯罪…がはびこっていても、聖書によって照らし出された希望への道はなお残っていることが見えます。この世は、どんな苦難が存在していようと、希望への道が残った、希望の世界なのです。イエス様によって心を開いていただいて、「暗い」状態から脱け出して、希望への道を確かな足取りで歩いていきたいものです。
残念ながら、私たちには「心の視界を濁らせやすい」悪い癖があります。手垢だらけの素手でフロントガラスを拭いて、曇らせやすくして、自分で視界不良に(「濁った状態」)するような…。「澄んだ」状態にするためには、イエス様にきれいに拭いていただくしかありません。
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私たちの悪い癖はもう一つ。自分で心を濁らせて「暗い」状態になっているのに、そのことに無関心、という癖です。イエス様の「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」の指摘を聞かなければ、私たちは自らの暗さに気付こうともしません。だから、心の曇りをイエス様にふき取っていただかなければならないことを、定期的・意識的に、思い出していただきたいと思います。重苦しい現実の中で、聖書によって示された希望への道をはっきりと見据えることは、生きる上で何より大切です。そのために、心の視界を、イエス様に拭いていただきましょう。そうして、気休めではない、確かな希望を見つめましょう。毎週の礼拝は、そのための営みでもあります。1週間の生活の土台に、礼拝を位置付けてください。「あなたの人生のともし火」である「心」を、これからも、イエス様にクリアにしていただきましょう。
(牧師 伊藤築志)
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