2025年5月11日「神よ、聞いてください…」主日礼拝
- 日本キリスト改革派 田無教会

- 5月4日
- 読了時間: 5分
更新日:5月17日
聖書箇所:ヨブ記13章1-28節
ヨブ記13章の文脈をおさらいしましょう。神様に従う無垢で信仰深い男「ヨブ」は、悪を避け、知らずに犯した罪があってはいけないからとまめまめしくいけにえを献げて神様との関係を良好に保つ人物でした。彼は神様の祝福を受け、幸せに暮らしていました。しかしある日を境に、彼は財産・家族・健康を失い、彼の苦悩が始まりました。苦悩の根本的原因は、神様の祝福が突然ストップされたことです。神様に裏切られたかに感じたヨブは、ひどく苦しみました。
ヨブを見舞いに来た3人の友人たちは、ヨブが吐露する胸の内を聞いて、ヨブを非難しました。ヨブの独白が神様への反抗に聞こえたからです。友人ツォファルはヨブに、「あなたに落ち度があって、神様に対する罪を犯しているから、神様があなたを懲らしめておられる」旨の非難をしました(11章)。
それに対してヨブは反論します(12-14章)。ヨブの苦悩は、ヨブにはその落ち度がない(自覚がない)のに、神様が気まぐれにヨブを苦しめておられるように思えることです。ヨブとしては、神様が気まぐれをやめてくださることを望んでいます。そこでヨブが独白したのが13章です。
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ヨブは、友人たちの慰めが欲しいのではなく、神様と論じ合いたいと考えています(3節)。そこで彼は友人たちに「あなたたちは皆、偽り(の薬)を塗る、役に立たない医者だ」(4節)とけんか腰に言い放ちます。医者が適切な処置をせず、取り繕いの処置でさしあたりの問題を覆い隠して解決したことにするなら、それは医者としては禁断の「偽りの処置」です。友人たちもまた、取り繕いのもっともらしいことを言うだけで、問題の核心に触れない、偽りの対応をしていました。ヨブはそのことを批判したのです。
友人たちとしては、ヨブが神様への反抗を重ねないよう、善意でヨブを咎めたのでありましょう。しかし「問題はヨブ自身の落ち度かも知れない」ということは、既にヨブ自身が検討していたことです。その結果「自分だけの問題にしてはいけない。神様と向き合うことなしに、この問題は解決しない」と悟ったヨブは、神様に対して反抗的にさえ聞こえる言葉を発するようになったのです。そのヨブに「そんなこと言うもんじゃない」と咎める友人たちの言葉は、神様を弁護しているようで、実際には取り繕いの言葉に過ぎないのです。あるいは、無益な言葉(12節)。そのような嘘で塗り固めた弁護を、神様がお喜びになるはずはありません。
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全能なる神様と論じ合いたいヨブは友人たちに「黙ってくれ」と牽制した上で、神様に直接申し立てたいと訴えます。ヨブの訴えは、覚悟のある、真剣なものです(13-15節)。殺されることも覚悟で、それでも申し立てをしたい。それがヨブの思いです。
ヨブが申し立てたいのは、神様とヨブとの関係が回復されるべきこと、です。ヨブは神様との関係の破壊が、神様の気まぐれによって生じたと考えています。神様とヨブの関係回復のためにヨブが必要だと感じていることは、神様が気まぐれをやめてくださることです。あるいは、神様が気まぐれでなく正当にヨブを懲らしめておられるのであれば、その落ち度を指摘してくださることです(23節)。もしヨブに落ち度があるなら、ヨブは食い下がるつもりはありません。
ただし、ヨブは自身の潔白さに関してかなりの自信を持っているので、申し立てによって関係回復が勝ち取れると見通しています。実はヨブ自身も、生まれてこの方ずっと落ち度がない、と自惚(うぬぼ)れているわけではありません(26節)。しかし、彼はいけにえによって罪を赦していただき、落ち度がないと神様に見なされて、神様からの祝福を存分に受ける幸せを得ました。彼が「わたしには落ち度がない」と主張するのは、そのような神様との関係があったからです。残念ながら今やいけにえによって神様を振り向かせることができなくなったので、ヨブは、申し立てを起こすことで自らの主張を神様に認めさせ、救いを勝ち取るという戦略を立てた、というわけです。
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ヨブが申し立てを起こすためには、神様に「ヨブの上に御手を下すこと」「ヨブを脅かすこと」をやめていただく必要があります(20-21節)。そうでなければヨブは神様の御力の下に抑圧され、自由に語れないからです。
そして、神様に調停のテーブルに着いていただく必要もあります(22節)。ヨブは神様の御前から逃げ隠れするつもりはありません(20節)が、ヨブには、神様がヨブから隠れておられるように思われてなりません(24節)。ヨブにとってそれは不安なことであり、神様から敵と見なされることと同じです。このようにされたら、圧倒的な力の差で打ちのめされ、回復の見込みもないほどに朽ち果てるほかありません(28節)。ヨブとしては、神様の気まぐれで朽ち果てるのは納得がいかないので、せめて調停の場で、納得いくまで論じ合うことを望むのです。
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ヨブが取った戦略で見倣うべき点は、「神様に救いを求め続けた」点でしょう。彼は神様から離れようとしませんでした。他の何かに救いを求めることもしませんでした。
しかしながら、聖書全体を見渡したとき、ヨブの戦略に大きな欠点があることもわかります。その欠点とは、神様を「気まぐれな方」と見なした上での戦略である、という点です。ヨブは神様が「慈しみとまこと」の神(詩編57:4、117:2他)であることを忘れているのです。神様を慈しみとまことの神として信じるなら、神様が必ず救ってくださるはずのその時を「待つ」という、別な姿勢を取ることができます。
神様の慈しみを待ち続けた信仰者に対して、使徒パウロは、神様が必ず救いを成し遂げてくださる旨を説き、励ましました(フィリピ1:6)。この励ましが、ヨブの友人たちのような偽りで塗り固めた言葉であろうはずがありません。救い主イエス・キリストが、偽りなく、私たちのために自らを犠牲とし、苦しみ抜かれたからです(マタイ27:46)。イエス様の偽りない犠牲が裏付けにあるので、私たちは、パウロの励ましを真実の励ましとして受け取り、神様の慈しみを待ち続けることができます。聖霊も、待ち続ける私たちを支えてくださいます。
(牧師 伊藤築志)
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