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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年4月19日「時を見分ける」主日礼拝

  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書12章49-53節

  • メッセージ:中山 仰牧師

 イエスの弟子たちは、イエスの復活を否定することができませんでした。復活のイエスを、顔と顔を合わせて目の当たりにしたからです。二千年たった今でも、イエスが復活し、今も生きておられるという事実が変わることはありません。その事実が、世界中のクリスチャンを励ますのです。その事実の上に、私たちは自分の人生を建て上げるのです。

 ところで、今日の個所は柔和なイエスさまと少し異なる強い印象持たれたのではないかと思います。イエスさまは平和のイメージが強いですし、実際に柔和なお方です。でも今日のところで主ご自身は12:51「 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」49また「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と厳しい言葉が語られています。

 ユダヤ人一般には、メシアは地上に平和を持ってくるという説を否定しているからです。キリストの教えは、最終的にキリストの味方に立つか否かの決断を迫られます。

 しかし、私たちの救い主イエス・キリストは徹底的に愛なるお方です。そのために主はここでまず、12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。と覚悟を語っておられます。

 その主は地上に火が燃えていないと嘆かれます。主イエスの御目には2つのことが予想されているようです。

 1つ目は「主ご自身が受けなければならないバプテスマ」がある点です。それは十字架の死のことです。「洗礼」というギリシャ語は、もともと水中に沈められることを意味する言葉で、そこから転じて苦しみの中に沈められることに転化します。ある時、主イエスは自分たちをイエスさまの両脇に座らせてくださいという頼みをした愛する二人の弟子に、自分と同じ苦しみを甘受できるかと問われます。主の通られる苦しみの十字架こそ栄光にいたる道なのです。

 2つ目は、火についてです。これは、主イエスの贖罪に基づく聖霊の働きを指します。洗礼者ヨハネは主イエスについて「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と指し示しました。その火とは、人々の心を清め、主イエスの新しい理想に導く霊的な火のことです。主イエスはこの火を地上に放つために来たのですが、まだ燃えていませんでした。しかしやがてこの火は十字架の上から人々の心の中に燃え上がるのです。

 しかしその時はまだ、その火が燃えていないのです。地に平和を与えるために来られたのに、その火が燃えていないということは、その前にまず「分裂」が必要だからです。その分裂とは、12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」という厳しさなのです。

 点火から燃え盛るまでに間に、分裂が必要という現実を改めて教えられます。ここにバプテスマのヨハネさえ誤解していた主イエスの独自性があるからです。この洗礼(バプテスマ)は、蝮の末が受けるのではありません。メシアご自身が受けてくださるのです。ですから分裂というと裁きに聞こえて怖いのですが、キリストにあるか否かに分かれる分裂だということです。それゆえ、キリストにある者にとっては、絶対の救いになります。

 もちろん、そのためには十字架を避けることができません。その点においてキリストは、真の人としての弱さを持っているゆえに、心から恐れていることも確かです。

 この世が裁かれる時、この世の支配者が追放されます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。この世が裁かれることを通して、キリストにある者たちが主に引き寄せられるという、そのための分裂が起きることが予告されています。

 どのような主張を持っていたとしても、ミリケア・クリスチアナ(戦うキリスト者)に徹して剣を取ることです。武力の剣ではありません。信仰の剣をです。

 私たちは、生来戦いを好まない平和主義者です。分裂があったら早くこぎれいにまとめあげて、本当の平安がないのに、「平安だ、平安だ」というくせがあります。バビロンという強敵の前に、神のイスラエルが預言者を通して戒めた時に、偽預言者たちが「平安だ、平安だ」とさんざん主の言葉に逆らったことを教訓にしなければなりません。

 もし教会が戦いを止めたら、主ご自身が剣をもって戦うとおっしゃられます。ヨハネの黙示録2章16節:みだらなことをさせるために、偶像に献げた肉を食べさせたり異端のニコライはの教えを奉ずる者たちに対して、「だから悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」と主は宣言されます。

 主はその戦いを武力ではなく、ご自身の命を賭して贖ってくださったのです。それゆえに、父なる神は、御子を高く上げられました。そして信じて信仰の剣をもって主と共に戦う者たちのために、復活され永遠の命を与えてくださったのです。ここに主の徹底した愛があります。そのために主イエス・キリストご自身がどれほどの苦しみを味わったかを、知らなければなりません。

 「義のために迫害される人は幸いである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)ここに主にある分裂があります。主にあって痛みを通過した者たちはなんと幸いでしょうか。その者たちを主はこよなく愛してくださいます。


田無教会牧師 中山仰

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