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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年5月24日「安息日の解放」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書13章10-17節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 ファリサイ派の人々は、家畜の生命にかかわる仕事については安息日にも許可していました。それについては、15節から分かります。ここの並行個所のマタイの福音書にはこうあります。「あなたたちのうち、だれが羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」と。ただしクムラン教団というさらに厳格なグループの考えでは、「安息日には家畜を救うことも助けることもしてはならない。穴や溝に落ちても安息日には引き上げてはならない」(ダマスコ文書)というものです。このような人々によってまちまちな人間の決めた安息日伝承に照らして、イエスさまのした奇跡が批判されたのでした。ファリサイ派の人々は、主イエスのなさった婦人に対する癒しが、命に係わる病気ではないので批判しています。

彼らの偽善性を暴露するために、主イエスは3つの比較をされます。「牛やろば」を「飼い葉おけ」という人間の拘束から解放すべきであること。「自分の牛やろばが水を飲む」までの我慢という一時的拘束と「18年間」の束縛とどちらが耐え難いかです。さらに「自分たちの牛やろば」と比較した場合と「アブラハムの娘」とどちらが大切なのかということを示されています。この三重の大小を比較してみると、13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」という必然性が立証されるではありませんか。

 ここで問題にすべき点は、「働いてよい日は六日」あったという事実です。そこに着目しましょう。そのような時間的余裕があったのに、会堂管理者たちは十八年間もいやしをすることができなかったという点が問題です。したがって、「その間に、来て治してもらうがよい」という言葉によって、自分たちに治すことなどできないのだからイエスさまの方に行かなければ解決しないという事実を際立てています。

この主イエスのユニークな人柄とその実力を認める人だけが、主イエスの真の安息を得させるメシアとして認めることができるでしょう。またそのような時にだけ、主の御業であるアブラハムの娘をサタンの束縛から解放すべきであるという主張を受け入れ、またその御力を信じることができるです。

 主イエスの神の国の使信は、「反対」する者たちとそれを「喜ぶ群衆」とに分裂させます。しかし、ついには分裂の中で勝利をもたらします。反対者たちは「皆恥じ入って」いるのであり、賛成者はみな「こぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」のでした。

 ですから今の時は、最後の審判への「途中」ではあっても、主イエスにおいて神の国の勝利はこの時代この世に介入し、サタンの束縛をぶつりぶつりと断ち切りつつありことにあります。すでに天の安息は現実化しつつあるのです。

 イエスさまにとって、そのような自由を用いられるという事柄はどうでもよいこと、またはごく小さなことであったのです。では主の振る舞いにおける興味深い関心は違反のための違反なのでしょうか。私たちはそのようなことはありそうもないと思っています。もしそうならば、私たちに承認できることはただ一つしかありません。「いつでもとは言わなくても、主イエスが意識的にまた好んで安息日に癒されたのは、主の到来によって七日目の・終わりの日という・大いなる主の日が始まったからにほかなりません。言い方を変えるならば、癒しという事実は、主イエスが神の御名において、御父ご自身の業を行うためであります。かつ御子としての御業の成就であり、御子として到来された神の特別な御言葉であったからにほかなりません。したがって、主は安息日をこのような癒しと解放によって、誤解を恐れずに言うならば、安息日規定を破壊されたのです。それは無秩序の破壊ではありません。

ですから、そのようないわば破壊行為はそれだけでは終わりません。主の御業により、この上もなく聖なるものとして保持し祝われたことがことさら強調されねばなりません。このように主の御業は、安息日にもというだけでなく、安息日においてこそなされることであり、事実、善を行って悪を行わないことを実行してくださったのです。そのようにしてまでなさってくださったのは、人の命を救って滅ぼさないという姿勢です。そしてその自由を主イエスは持っておられたのです。

 さらに探求すべきことは、何といっても、安息日は第七日目の創造であるということです。創世記2章のはじめに、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」とあります。それまで第一日目の創造から第六日の創造まで、神はそれを見て良しとされています。そして「夕べとなり朝となった」のです。そしてあくる日の創造へとつながっていきます。ところがこの第七の日の創造に関しては、その言葉がありません。それはつまり第七の日の安息は、まだ閉じられていないということは確かだからです。この安息が閉じられる時はやがて、復活の主がもう一度おいでになる時であります。

 このように今の時代、今の時とは「神の訪れの時」なのです。「その時」については、イエス・キリストによって予告されていました。その時を「時をわきまえ」「目を覚まして」悔い改めた御国の子とは、これを知って礼拝する者たちのことです。会堂管理者はまるでこの腰の萎えた女が、安息日ではなくて六日の間に「治してもらうがよい」と言い捨てられているように、彼らの信仰はこの婦人に対して、ご利益信者のような扱い方です。

礼拝は、サタンの束縛から解放されて神のしもべとなった者の当然のつとめです。多いなる喜びの時なのです。このような癒された婦人や徴税人の頭であったザアカイのようなものこそ、名目だけでない真実の「アブラハムの娘」また「子」なのです。

 砕けた心で、真心から礼拝をささげる私たちもまたアブラハムの子なのです。主がもう一度来られるまで、安息日の祝福の招きは続いています。この時を「見分けて」主の下に立ち返り、み言葉により励ましあい、永遠の安息の中に、今すでに入っている喜びを確認できます。

田無教会牧師 中山仰

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