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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年6月28日「自分を低くせよ」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書14章1-10節

  • メッセージ:中山仰牧師

12節ここでの「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。」という言葉は、「呼び続けるのを止めよ」とか「呼ぶのを習慣にするな」という継続をしめす戒めの言葉です。一度や二度の招きではなく、習慣的に特定のクラスの人ばかりと交際するというのは、いかに親密でも、他のクラスへは排他的ですし、結局エゴイズムにほかなりません。ここの書き方から宴や食事の会に招く時には、しばしばというよりか常に、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人は除外されていたということが分かります。このような差別は、私たち人間の心の奥底に潜んでいます。通常の食事に私たちが招く時は、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちがメインではないでしょうか。

 同じようなことが教会内に起こる時があります。奉仕に熱心と言いつつ、その働きにおいて、その実、仕えるどころか自己宣伝の具、勢力争いの場としていることがあます。聖徒の交わりと称しつつ、結局は気の合う同士の党派を組み、他人を寄せ付けぬ冷たさに固まっているではありませんか。

 真の謙遜は、計算せざる慎みです。真の栄誉は予期せざるものです。それは自分でも他人でもないかた、神さまがおられて、ちゃんと見ておられるという信仰から生まれるものです。

いわば、横の関係が悪いままで、縦の関係である神との関係が悪くないはずはありません。

 事実今日世界の差別を見るならば、どうして真の平和がもたらされるでしょうか。私たちの心に巣くう罪の差別の意識をもったまま神の御前に出ることなどできるのでしょうか。

 信仰者が今日の個所のようなイエスさまの聖書の教えにどのように対処するのでしょうか。アメリカや諸外国を例に挙げる必要はありません。私たち自身の内にも同じ罪が潜んでいます。天の御国は、イエス・キリストを通して私たちに確実に約束されています。その恵みに恥じるようなことをしていないでしょうか。

 これらのことを前提にして婚宴への招待について考えてみましょう。

 まず、さて婚宴に招待されたとき、上席についてはなりません。これは真の謙遜を教えるための「たとえ話」です。真の謙遜は、神に対してと人に対しての両面を兼ね備えていなければ成り立ちません。自らは末席を選ぶこととは、つまり万事を神の評価に委ねるということです。これが主イエスの価値観であり、評価です。上座を好むということは、結局誰かを下に見ることになり、ここにも差別の芽が生じて来ます。まさに、食事の招待に代表されるように、貧しい者や弱い者たちを退けていないかが問われています。

 いよいよ初めの安息日論争にについて考えてみましょう。

主イエスは、安息日に水腫を患っている人を癒されました。水腫は性病の一種とも言われていました。死に至る病ではありませんが、この病気からの解放を第一に主は考えられたことは間違いありません。この時、何を基準の第一においておられたかです。主は簡潔に「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」と問われます。

この答えは明白です。安息日は私たち神の形に似せて作られた人間の安息を祝福が第一です。であるなら、どうしてこの病の人を放っておけるでしょうか。病人を癒された上に、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」と畳みかけて質問します。人間の子供が落ち込んだら助けてやるのに、動物だから明日まで待つとするならば、それは動物への蔑視という以上に、命というものを大切に考えていないことです。この基本的考えが見えなくなっている罪、これこそ差別の最たるものでしょう。

 安息日は、本当に私たちへの祝福であり、招きの時なのです。永遠の命をかいま見ることのできる時なのです。復活の主にお会いする時、所だからです。この真の安息の内に私たちは地上の喜びを味わい、共有し、祈りつつ、礼拝の交わりを通して主の栄光を現わす生活をすることができます。それはもうすでに、天の御国の交わりに入っているからです。本来預かることのできない貧しい罪人である私たちが、この招きに預かっているという信じられない感謝なのです。

 この安息日を守ることを第一として、そこで受けた祝福と恵みを伴って喜びの生活へと出て行くことができるのです。そしてともすれば罪のゆえに人を裁いてしまう自らを省みて、悔い改め、主に従う心へと変えられていきます。何よりも、主イエスがこの小さく貧しい僕を差別しないで、顧みてくださったからです。その愛の内へと戻ることができるのです。

それ以外に私たちの依って立つところはありません。御霊なる神は、命の御言葉を通して心からなる平等と、公平と愛をもって実行できるようにつくり変えてくださいます。

正しい者とは善い行いをするということ以上に、主が私たちに仕えてくださったように人々に仕えることでなくてなんでしょうか。正しい人だけが永遠の命に入ることができます。悪人は神から離れて存在し続けるので、永遠の幸福な生命に預かることはできません。では、私たちは失敗しない謙遜を兼ね備えているのでしょうか。残念ながらノーと言わざるを得ません。ですから、キリストを必要とするのです。多少良い雰囲気を味わうというのではなくて、生きていく上に欠かすことのできない存在なのですから。絶対に赦しを乞い、心から慕い求める存在なのです。私たちの命の命なのです。その主にあって、主ご自身が私たちに徹底的に使えてくださったように、綿たちも心砕かれ、主の愛と平等の前に、キリストに倣うことです。安息日礼拝は真に人を生かす時です。神の前を離れていた罪人が神に立ち返る時であり、神と共にいる処なのですから、心から感謝し、真心からおささげします。私たちの小さな信仰を顧み、憐れんでください。主よ。

田無教会牧師 中山仰

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