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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年4月18日「真の権威を持つ主」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 20章1-8節

  • メッセージ:中山仰牧師

 今日のここでの論争の主題は、権威についてです。主イエスご自身の権威が問われました。

 それはそのままイエス・キリストと言われるお方は、どういうお方であるかという論争につながります。権威は力を伴います。主イエスにはその力があります。その力とは、感謝すべきことに私たち人間の罪の奴隷状態からの解放です。サタンの神の御救いに対抗する力、それが人間を捉えています。悪魔の力から人間を奪い返し、解き放つ力、束縛を砕き自由を与える権威、それが問われます。主イエスの権威とは、まさに人々を拘束している状態から自由にする権威です。突き詰めるならば、私たちの自分の自由が何に根差すのかと言い換えてもよいものです。

 ところがこの主イエスの権威があらわになると、それに腹を立てた人たちがいたということです。主イエスは、それまで聖書の専門家が語って来たことと別のことを語ったのではありません。律法学者たちが語って来た旧約聖書の言葉が語り掛けて来た真理が、今まさに、ご自分において実を結んだと言っただけです。

 私たちはみな心の中に、自分の部屋を持っています。そこへは誰をも入ることを許されない場所です。言い換えると、そこを守るために役立つ神の言葉だけを、自分の語るべき真理としたのです。ですから、主イエスが来られて、律法の根本的な精神に戻れ、神の愛に戻ることを指摘されたとき、どれだけ迷惑なことと思ったことでしょう。イエスさまが来られるということは、それまで王として勝手に暮らし生きている自分の領域が脅かされるほかはないからです。

あなたが御言葉に接し、主の福音を示されたとき、あなたはすぐに神を受け入れたのでしょうか。抵抗したのではないでしょうか。伝道とはそのような頑なな心を持っている人たちに福音を語ることなのです。何とかして一人の魂を救おうとお誘いし、御言葉を語る中で、そのような頑なな心が和らぎ、崩れ、イエスさまを主として迎えるようになって行くのです。そのためには忍耐して福音を語り続ける以外にありえません。

 主の宮清めは一週間の祭りの期間ずっとなされていました。当然、主が教えられていたのも毎日です。このような毎日の主イエスの教える権威、毎日イエスさまが神殿を独占する権威は神殿の主として天から与えられたものだったのです。

その毎日の行動について、祭司長や律法学者たちが質問というより詰問して来たのでした。2節「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」と。その質問に対して、主は「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」とバプテスマのヨハネの働きの権威に基づいて反論し、切り返しの質問をしています。これは、敵対者たちの矛先を逸らすための技巧ではありません。ここにおいても、洗礼者ヨハネの働きが主イエスのメシアとしての前触れとしての活動を指し示していますが、そのことと密接に関係していたからです。

この主イエスの質問に対して、サンヘドリンというユダヤ最高議会の祭司長、律法学者、長老たちが「知りません」と答えたのは意外です。なぜなら、ユダヤ全土におけるヨハネの感化は非常に大きいものでした。ファリサイ派やサドカイ派の人々すら、ヨハネからバプテスマを受けなければ時代の波に乗り遅れると焦ったほどでした(マタイ3:7)から。主の質問にたじたじとなって、故意にヨハネの天からの権威を認めないという発言をしたのです。主イエスの質問に対してまともに答えたくなかったということです。ということは裏を返すならば、却ってイエスさまの権威は間違いなく洗礼者ヨハネが示した通り、天からのものであるということが雄弁に立証されたのではないでしょうか。実はこの権威に関する限り、主イエスの先駆者となったヨハネからすでに始まっていたのです。ヨハネもまた、自分の知識や自分の理論を論じたのではなく、神から与えられた力をもって、み旨に基づいて罪からの人々の解放を語ったのです。だから人々はみなヨハネのところに集まり、ユダヤ人たちは彼が宣教した「悔い改めの洗礼」を受けたのです。人々は心から神の赦しと罪からの解放と悔い改めを求めていたからです。

民衆は常に支配者たちから抑圧されていますが、ヨハネとヨハネが示したメシアであるイエスさまに対して、この主イエス・キリストの権威を受け入れるどころか、むしろ権力者たちと一緒になって、イエスさまを殺してしまうという大変多きな罪の根っこが残っていたことからの行為です。

 しかし同時に私たちが感謝すべきことがあります。主イエスの真の権威は、私たちに膝をかがめさせるものではなかったということです。権威ある主イエスの行動は「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それの十字架の死に至るまで従順でした。・・・」(フィリピ2:8)とあるように仕え尽くしてくださいました。真に神の権威を持たれるお方が、それを行使せず、むしろその権威を私たち信じ従う者を救うために、徹底的にへりくだられました。このように主イエスは、もっとも低いところにくだる自由を生きられたのです。それもまた主イエスの権威に属することだったのです。真の権威とはそのようなものであることを改めて知り、また感謝の内に、悔い折れて改めて感謝する思いです。

 その計り知れない神の救いのご計画を一身に担われたのが、主イエス・キリストです。それゆえにこのお方にのみ神の権威、まことの権威が与えられているのです。私たちは感謝して、ただ神の憐れみである救い主イエスにすがるのみです。

 それにつけても、キリスト教の神殿を「教会」と訳したのは名訳と言われています。神の宮はすなわちキリストの教会であり、その教会において、キリストだけが御言葉を通して救いの福音を独占的に教える権威を持っていることを認めるところだからです。個々の信徒が日常祈りながら、神とキリストの権威ある教え、その人を生かす教えに服するところです。そこにこそキリストの教会があるのです。ここに集められて、礼拝をささげ、御言葉を通して御霊の導きにより、父なる神と救い主イエス・キリストにより、御父の権威のうちに信仰が育まれていることを心から感謝します。


田無教会牧師 中山仰

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