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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年10月3日「主の晩餐」主日礼拝

  • 聖書箇所:ルカによる福音書22章14-23節

 

 ルカは、主イエスの十字架がこの「主の晩餐」を色濃く映し出していることを特に強調したかったのでしょうか、パラドックスや韻を踏む印象深い工夫が凝らされています。

15節に「この過越の食事がどれほどの喜びであるか」と言うそばから、16節で続けて「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越しの食事をとることはない」といういわば断食の誓いという対照的な書き方がなされています。

 そして17節で杯を取り上げて感謝の祈りをささげます。続けて18節でやはりと断食の誓いをされます。19節でパンの配分を指示された後に、今一度20節から杯の配分を重ねています。このように詩の韻を踏むような美しく重ね合わせる並行の形で描かれていることが特徴です。

 18節の「今後」とは主イエスの死と復活から後の時代のことであり、教会の時代を指し示しています。「今後」という言葉は、少し後の69節で、主が最高法院で裁きを受けるとき「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」とおっしゃられたときの「今から後」を暗示して十字架後の復活による主イエスの権威を示しています。

 弟子たちには、それまで容易であった主イエスと一緒の宣教活動と異なり、剣を必要とする戦いの時(36節)となり、嘆きと断食の時(5章35節)に向かいます。そのような時に、主イエスは御自身も弟子たちと共に断食をしようと連帯の誓いを立てられます。聖餐式は、このような「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われる主イエスを覚えて行うべき礼典なのです。戦いにおける主イエスとの連帯感です。戦う兄弟同士の連帯感なしに、聖餐式はリアリティを感じないことでしょう。

 それゆえにキリスト教会の聖餐式においては、「主の死を告げ知らせる」(1コリント11:26)と使徒パウロによることが明記されています。主の死は贖罪死という死であるという意味を明確に告知することです。キリスト教会のシンボルとしての十字架で死と復活の“事実”を伝え、聖餐式において死の“意味”を告知しているのです。そのためにも、「からだ」を表すパンのほかに、「血」を表す杯が用いられた(ヘブル9:18-22)のは、赦しの血と契約の血を強調するためでした。

 この契約が「新しい契約」と言われるのは、最初の旧約時代の契約が欠けたところがあったために、真の大祭司である主イエスがはるかに優れた務めをなされたという新しさのことの故です。その契約がどれほど優れているかというと、主は「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつける」(ヘブライ8:10)方法による点にあります。

 ですから聖餐式には、必ず自己吟味が必要となります。4つの福音書すべてが最後の晩餐に弟子であったイスカリオテのユダの裏切りの予告を組み合わせるのも、この自己吟味のためです。それに反して弟子たちの吟味はどうであったかというと、「22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」のでした。

 そのように、私たちは実にしばしば主イエスの十字架を忘れてしまうのです。それは私たちが自分の罪を忘れるということです。十字架の犠牲がなぜ必要であったかを忘れないということは、自分の罪を忘れないということです。罪の自覚無くして、主イエスが罪のための供えものであったことを思い起こすことはないでしょう。

 なぜ洗礼を受けるのかといいますと、これは「わたしの体」「わたしの血」だと言われる主の言葉を、信仰をもって受け入れるからです。この信仰をもって受け入れるということがなければ、主の体と血にあずかる奇跡は起きません。

 聖餐の司式者は「これはわたしの体、わたしの血」と言われる主イエスの言葉を取り次ぐのです。この時の「わたし」とは十字架に向かって苦しみの道を歩まれたお方のことです。つまり死なれた肉体、流された血をもっておられた主イエスです。それこそまさに死人の中から甦られて、その甦りの命に生きておられる方でなくてなんでしょうか。

 「神の国で新しく飲むその日まで」といういう言葉は様々な理解があります。①あの日弟子たちは生きておられる主イエスと一緒にいる喜びの中で、「ああ、神の命の支配・神の国はここに来ている」と確信したことは間違いありません。②もう一つの理解は、教会が始めた聖餐であるということを覚えたいのです。最初の教会が何をしたのか、何よりも日毎に喜びながらパンを裂いたのです。つまりまず最初に聖餐に預かったのです。

 その聖餐に預かる際に心に思い浮かんだことは主が十字架におかかりになられる前に、主イエスと共に晩餐に預かりながら、主が逮捕された時に、主を裏切って主イエスを見捨ててしまった。それにも関わらず、今私たちはこうして聖餐に預かっているではないか。そのような私たちが主の聖餐に預かることが許されているということは、何という信じられない恵みなのでしょうか。そのような信仰の弱い私たちだからこそ、主の恵みに与り、その恵みを語り伝えながら、主の生き生きとした交わりを思い出して、パンを裂きぶどう酒を分かち合うことができるのです。そしてその恵みを分ち合う仲間と共有できるという破格の喜びがここにあります。

 ③さらにもう一つの理解が可能です。「神の国で新しく飲むその日まで」というのですから、地上の教会の歴史はやがて終わり主が再び来られるときのことであるという解釈は間違いありません。

 それゆえに、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。と主はおっしゃいました。「切望」という言葉は、「欲望」とも訳せる強い意味の言葉です。抑えることができない、吹き出てくるような願いをもって、主イエスはあなたがたと一緒に食事をしたいと望まれたということです。聖餐はこのように主の願いに根差しています。主イエスがどんなに切実に、私たちと一緒に食事をしたいと願われているかということを心に刻み付けたいのです。聖餐は、主の苦しみを共にしたいと願う者たちへの招きです。本来は、その恵みに預かるのにふさわしくない者をも区別せずに招いてくださることは、ただ感謝です。

 私たちはもう一度主が来られる時まで、主の死を告げる群れとしてキリストの教会の礼拝において聖餐に預かり続けて行くのです。


田無教会牧師 中山仰牧師

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