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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年2月7日「今日、救いがこの家を訪れた」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 19章1-10節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 ユダヤ人の信仰者たちの我慢ならないことは、異邦人の不信仰であるローマ帝国のために税金を納めるということであったでしょう。徴税人とは、そのローマ帝国の傀儡とみなされ、ローマのために働くのですから相当うしろめたい思いで働かなければなりません。その上ザアカイは、徴税人の頭であったというのですから、その責任は他の徴税人より何倍も重いものと受け止めていたに違いありません。事実、彼は「金持ちであった」とはっきり記されています。

 そんな折に今評判のイエスという人物が自分たちの住むエリコの町を通過するというニュースを耳にします。何かに突き動かされるように彼は主イエスに会いに行きます。ところが、大勢の群衆の陰で彼は見ることが不可能でした。「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」とあるように、彼は背が低かったからです。それでも彼は諦めることなく、いちじく桑の木に登ってそこから主を一目見ようとしていました。すると通りかかったイエスさまの方から、驚くことに名前を呼ばれます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われたではありませんか。ザアカイは驚きつつ、大喜びでその申し出を受け入れています。ほとんど友だちさえいなかったのですから、その嬉しさはたとえようがありません。

 イエスさまを見ようとしたザアカイの思いが信仰につながったというのではありません。この主が「見る」「ご覧になる」という行為こそ重要なことなのです。このザアカイの記事は前段のエリコの近づかれたときの盲人の癒しの奇跡と通じているからです。盲人は必至に主イエスに縋りついた信仰が評価されたのではなくて、主が彼をご覧になり「何をして欲しいのか」という質問を主が発せられ、それに呼応して「見えるようになりたいのです。」と答えたことを受けて主が癒されたことが肝心なのです。

 ザアカイの回心の大きさは、その後の彼の告白に見て取ることができます。イエスさまがザアカイに「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という表明をした時に、人々の反応は文字通り「これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」でした。しかしザアカイは立ち上がって、主に「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言っています。

 ここにザアカイの回心の度合いを見ることができます。通常の賠償はレビ記5章20-24節によると5分の1でよいのです。4倍の保証に及ぶというのは明らかな盗みの場合です。そのような賠償の約束の前に、まず「貧しい人々に財産の半分を施す」という約束は本心からの悔い改め以外にあり得ないことです。

 さて、私たちはこのお話しの中でどこに位置するのでしょうか。当然私たちもザアカイなのです。ところがそう思えないとしたら、私たちも主イエスをなじった群衆の一員であり、イエスと敵対しているファリサイ派と言われる特権階級と同じ穴のムジナなのです。

 人に嫌われる仕事について金を稼いでいるという妬みを持つなら、やはりザアカイを拒否しています。さらに私たちは税金を払うということについては不愉快に思っていたり、かなり抵抗があるのではないでしょうか。私たちは普通、無理に、ほとんど自分の意に反して、人にお金を渡すことを好みません。それを税金という名のもとに力づくで奪われていってしまうのです。今日でも日本政府が一番苦労しているのが税制改革ではないでしょうか。冒頭で申し上げましたように、信仰をもっているユダヤ人にとって、不信仰の国であるローマのために税を納める、あるいはそれと結託して税金を踏みにじる徴税人に対しては我慢ならないことだったことがよく分かるのではないでしょうか。

 そのような中で小さい自己満足は、私はあの徴税人のような仕事でなかったことで溜飲を下げていないでしょうか。自分は何者なのかということを問う時、自分を納得させるために私はあの人とは違うということを引き合いに出して満足することをしないでしょうか。いつもどこかで線を引かないと、自分が自分であるということを確かめられなくなるのです。それは悲しい生き方でしかないでしょう。

 近頃、ずいぶん不幸なことだけれども、家族のためにだけ生きていた女性たちの反逆が起こっていると言われます。そういうものと取り上げた小説やドラマが放映されています。それは他者のために生きたということに本当の意味を見い出すことができなくなった社会だからです。それは本当に不幸な社会と言わざるを得ません。なぜ他者のために生きるということに意義や意味を見出すことができなくなるのでしょうか。それは、神の祝福が見えないからと言わざるを得ません。家族のために生き抜く生活と、主イエスが祝福してくださるということが見えなくなるからにほかなりません。

 ザアカイは本当にびっくりしたと思います。自分でも見たことがないようなまなざしで、自分の生活を見て、自分自身を見て、祝福して、「わたしに着いて来てごらん。そうしたらあなたは健康になれるから」と。そう言われてザアカイは気が付きました。自分が病んでいること、人間としてまともに生きていなかったことを。どんな人々のなじりや蔑視や厳しい言葉よりも軽蔑よりも、比べることのできない一見痛い言葉、その主イエスの愛の言葉が心に突き刺ささったのです。その言葉に生きることができます。


田無教会牧師 中山仰

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