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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年7月11日「頭を上げよ」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書21章20-28節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 世の終わりとか自分自身の終末すなわち死について誰でも敬遠しがちです。主イエスは御自身の十字架を目前にして、私たちが聞かなければならないことを、最後の機会としてお語りになられているのです。ですから心して聞かねばなりません。

イスラエルはローマ皇帝が紀元前40年に自分の像を刻んだものを立てて礼拝することを強要しました。それで反発して革命を起こそうとしましたが、神殿滅亡時に110万人の死亡し、60万人が捕虜となったと歴史家は記ます。

 まさに主イエスの預言は「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」。また「山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。」とあります。なのになぜこの言葉に聴こうとしなかったのでしょうか。それははっきりしています。神の言葉、神の警告の言葉、真の大祭司であり預言者である主イエス・キリストの言葉を聞かなかったからです。人々は旧約聖書以来の神殿信仰にしがみついていましたので、神のおられる神殿が害されることはないと勝手に信じていました。しかし、ローマ軍は容赦せずに、神殿の中まで追ってきました。その流された血が神殿の入り口の玄関から滝のように流れくだったと記されています。このように主の言葉に従って、山に逃げたキリスト者たちは助かったのでした。

 私たちは頑なで神の言葉を聞こうとしません。肝に銘じて悔い改める時は、死の時です。その時でさえ、この世の価値観に傾いていると素直に聞くことはできません。世の終末においても同じことが言えます。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」ことになります。だから主を待ち望人々にとってそれは待ちに待った待望の裁きのときであり、希望の時なのです。ですから、どんな状態にあえいでいても「身を起こして頭を上げ」ることができるのです。

 「救い」と訳されている言葉は、解き放たれることを意味しています。解き放たれるとは、私たちを縛っているものから解き放たれるということです。私たちを押さえている恐れがあります。不自由さがあります。不信仰すらあります。それらの弱さ、臆病などのすべてから解き放たれるのです。神の勝利は、敵を敗北させるということ以上に、むしろ私たちを捕らえているものから私たちを解き放ってくださることから始まります。それを信じる時にこそ、真実の意味での望みが生れるのではないでしょうか。

 その内容をよく表している讃美歌1編520番はどんな時も個人的な危急の時も世の終わりの時も、主イエスが共におられるので「神によりて安し」なのです。


田無教会牧師 中山仰

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