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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年7月25日「安息と調和」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 創世記2章1-4a節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 本日の伝道礼拝では「なぜ礼拝に出席するのか」ということを念頭に置いて、安息日の祝福・聖別との関係で考えて行きたいと思います。

1.安息日の招き

 ここは神の天地万物の創造の完成の場面です。ここの「ハーラー」という動詞は、ほかに終わる、尽きる、衰え果てるとも訳せる言葉です。そのような動詞が用いられていることによって、完成してそれで終わってしまうのではなくて、むしろ「仕上げる」という意味で補えます。それは神の業の作業の継続と仕上げです。それが安息という神の壮大な業の中に散りばめられています。つまり、神の安息はその創造の業の仕上げと継続が含まれるというダイナミックな中に置かれ、その中に被造物を巻き込んで徹底的に祝福してくださると受け止めることができます。

 またこのわずか4節の中に、「第七の日」という言葉が3回も使用されていることが特徴です。ごつごつした文章ですが、実に神の安息の内容を伝えるべく、「第七の日」を繰り返し盛り込むことによって、神の創造を賛美し、印象付けていると考えてもよいのです。そのような方法により、ここの流れは、第一日目の創造から第六日目の創造と、対照的なリズムになっています。第一日に語られたことが光の創造でした。それは単に時の創造にほかならないだけでなく、それによって時に流れはすべて神の時に集約し、そこに向かうことにほかならないということを語っています。

 時代がくだって、神の民イスラエルは、バビロン捕囚の時、神の祝福から離れていました。異教で華麗な神殿を目にしながら自分たちは礼拝する場所を持つことができませんでした。その時、人々は安息日という神の聖別した日こそ、時間の中に神が設けた神殿であることを発見したのです。場所ではなく、神の示された第七の日にこだわってその日を重んじました。こうして人々は宗教的な歩みの原点に立ち帰りました。そこからすべては始まるのだということを心に刻んで確認したのです。その時以来、世界のどこででも神の安息の日が神の時の中にしっかりと位置付けられていつことは非常に大きな意味を持っています。

 さらにこの一週間七日というこの主の安息の七日ごとのリズムこそ、現代の苦悩の問題を解決するのにふさわしいものです。様々な時代の病やまた矛盾から起こる問題の解決に関して、突き詰めるとこの第七日ごとの安息日以外にないかと思えます。

 特に、現代社会の問題としての過労死と倦怠感が特に現代日本社会のもっとも大きなこととして上げられています。私たちの想像を超えて、過労死が頻発していますし、その一方で人々の中に若者たちを含めて倦怠感が蔓延しています。現代の資本主義は企業の業績を拡大したり保持するために、個人を平気で圧殺することをしています。過労死はそのような環境やシステムの中で、過大な仕事が課せられたり、自分で負い切れない課題をかけ込んでしまうことから起こります。資本主義の矛盾は、高度学術時代の登場と地域や風土を全く無視したグローバル化によって、世界の各地で噴出しています。その隘路にたって、人間が死にかけているといってよい状況になっています。

 そのような社会現象や仕組みを知り、大衆に迎合しないためには、聖書の言葉から知ることが必要です。そのためには、主の備えてくださった安息日にしっかりと聖書を通して神と向き合い、真理を知ることです。そして祈りのうちに神のみ旨を読み取ることでしか解決策はないでしょう。


2.新約時代の安息とリモート礼拝との関係

 私たちの改革派教会は、一人当たりの負担金が課せられていてそれが大会的な働きのために用いられます。教会経済が不安定ならば、運営がスムーズに行きません。田無教会の場合には、主の御用のために用いられるようにとささげてくださった結果、会堂建築資金の返済がスムーズに行われて今日に至っています。伝道の結果、一定数が集まって来たら、上福岡教会や坂戸教会のように、伝道所を生み出して来ています。生み出された教会がまた祝福されてさらに子ども教会を生み出して行くというような方法を用いて、福音伝道の働きの促進と教会建設の歩みが進展して行きます。そのビジョンを胸に温めながら、まず自分の置かれている教会に集い、喜んで教会を立ち上げ、また子どもを生み出して行くことは私たち改革派教会のやり方です。事実、CRJMの働きを通して実に多くの教会が生み出されさらに成長して子どもたちを生み出して行く方法によって祝福されているではありませんか。

 その方式によってどれだけ多くの人たちが救われたことでしょうか。北米改革派教会の愛する兄弟姉妹たちの礼拝でささげられた尊い献金の上に成り立っています。その喜びを抱きつつ、所属教会に仕え、その母体である東部中会や大会に参加していくことで主のみ旨を模索して、主に仕えて行く喜びを持ちます。そのように、そのベースになるのが各個教会の礼拝であり、そこでの聖餐の交わりを通した信仰共同体の歩みであり、祈り支え合いつつ過ごして行くことは初代教会の似姿と同じなのではないでしょうか。天の教会に属し、目で見ることは将来の召された後になりますが、すでにそのひな形としての地上の教会で見て、参加して、味わうことができているのです。

 その姿の基本はすでに、教会の礼拝の中に置かれています。それこそが安息日の祝福です。ですから、自分一人で聖書を読み、自宅で一人でまたは気の合う仲間数人で礼拝をささげるという形態の状態化は、主が与えてくださった安息日の礼拝とはほど遠いものでしょう。それらの交わりは歓迎しますが、その基本にあるのが主の日に復活の主が合って下さり、その励ましの上に基礎づけられていることなのです。安息日の祝福は間違いなく第七の日の教会の礼拝を通しての主の導きであり祝福です。安息日は、主が呼び集めてくださる以外出席できません。一方的にしかし愛の内に招いてくださる日なのですから、喜んで参加しましょう。


田無教会牧師 中山仰

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