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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年10月16日「みんなに、よろしく。」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章21-23節

 

今日の箇所は、フィリピ書の最後の段落です。ここに至るまでの手紙の本文の中で、送り手である使徒パウロは、「主イエス・キリストに結ばれること」について説いています。

フィリピの教会の中には仲違いがあり、教会は分裂の危機にありましたが、パウロは教会の一致を勧めました。教会を一致させる接着剤は、教会の一人一人が「キリストに結ばれている」という事実です。一人一人がキリストに結ばれているならば、その一人一人は、キリストの御力によって一つの共同体を形成できます。それだけでなく、キリストと結ばれている人は、人生そのものがキリストに結ばれており、キリストと共に生き、キリストと共に死に、キリストと共に復活します。そこに、キリストに結ばれている者(キリスト者)にとっての究極的な希望があります。

キリスト者には「天の御国」の市民権が与えられますが、しかしキリスト者になったらすぐに地上を離れて天国へ行くのではなく、もうしばらく、地上での生活を続けます。地上には神礼拝を妨害する人々もいますが、そのようなただ中にあってなお、キリスト者は天の御国の市民として神礼拝を続けます。

今日の箇所で、パウロはフィリピ教会の人たちを「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」と呼びます。「聖なる者たち」は文字通り「きよい人々」という意味です。しかし、キリスト者が皆「きれいで、けがれがない」わけではありませんね。フィリピの教会にも対立があり、人間的な弱さがありました。「聖なる者たち」と呼びかけられて「私は違う」とうつむく人もいたことでしょう。しかし「聖なる」という言葉にはもう一つの意味があります。それは「特別に取り分けられた」という意味です。その実態はきれいなわけではないのだけれども、神様に仕えるために、世俗のものと区別され、取り分けられているという意味です。パウロは、フィリピの人たちには実際には弱さや欠けがあるのだけども、彼らもキリストに結ばれて、天の御国の市民として、地上のものとは区別されているのだと言いたいのです。

この段落には「よろしく(直訳:挨拶する)」という言葉が3回出てきます。その挨拶は、手紙の文字を実際に読む人々だけでなく、手紙の朗読を聞く「すべての聖なる者たち」にも漏れなく届けられるべきです。

そしてその挨拶は、パウロからだけではなく、「パウロと一緒にいる兄弟たち(21節)」「すべての聖なる者たち、特に皇帝の家の人たち(22節)」からも送られています。牢獄でパウロの身辺の世話をする兄弟たちや、その周りのキリスト者たちも、フィリピの一人一人同様にキリストに結ばれた「聖なる者たち」です。ここにあるのは、すべてのキリスト者どうしの挨拶です。

「皇帝の家の人たち(22節)」は、ローマ帝国で働く公務員のことです。その中には自由のない奴隷の身分の人たちもいたかもしれません。パウロの周りのキリスト者たちの中には、帝国によって牢に囚われているパウロのような人から、帝国の公務員、また皇帝の家に仕える奴隷まで、多様な人たちがいました。パウロの周りにいたキリスト者たちは、職業や身分や出身などを超えて、ただキリストという接着剤によって一つになっていた共同体を形成していました。

フィリピはローマの植民都市であり、フィリピ教会には帝国がらみの仕事をしていた人たちもいたようですから、フィリピの信徒たちは特に「皇帝の家の人々」からの挨拶に励まされたようです。この挨拶によって、フィリピの教会は、パウロ側の共同体との「キリストに結ばれた」連帯を実感しました。キリストという接着剤によって、彼らは一つに結び合わされていたのです。

23節の祈りは、礼拝の最後の祝祷と同じ祈りです。地上での礼拝は、悩みや居心地の悪さや疲れ・居眠りから自由ではありませんが、神様はそんな不完全な礼拝をも喜んで受けてくださいます。そのとき、礼拝者が神様に受け入れられるという事態がこの地上でも実現します。祝祷では、礼拝を終えてそれぞれの生活に戻っていっても、礼拝者たちが神様と一緒にいられるようにと祈られます。パウロたちもフィリピの信徒たちに関して、同じ祈りを祈りました。

「主イエスキリストの恵み」とは、キリストに結ばれていることによってキリスト者にもたらされる、天の御国への希望です。ここでの「霊」は、その人の内面の奥底のことです。キリスト者の生活は、肉体的(物質的)な事柄だけでなく、霊的な側面でもキリストと結び合わされます。ここには、フィリピの信徒の一人一人の生活が、肉体的(物質的)に祝福されるだけでなく、霊的にも救いの希望と共にあるようにという祈りがあるのです。

だから私たちは、この手紙を読み終える時、キリストに結ばれている一人一人の生活のために祈る、キリスト者たちの祈りに触れるわけです。田無教会の一人一人も、フィリピの信徒たち同様にキリストに結ばれていますから、私たちもこの祈りに触れる時、祈ってくれるキリスト者たちとの連帯を実感できます。私たちもキリストに結ばれて取り分けられた「聖なる者たち」ですから、私たち欠けのある者の生活も礼拝も、神様に喜んで受けてもらえます(サム上15:22)。これこそ、天の御国の平和の先取りです。そして神様が、私たちを実際に少しずつきよめてくださいますから、いずれ私たちも、神様をもっと心から崇めることができるように変えられます。

そのために祈ってくれたのは、パウロと共にいたキリスト者たちだけではありません。世界中のすべての聖なる者たち(=すべてのキリスト者たち)が、同じように祈っています。そして世界中のキリスト者たちとキリストによって一つに結び合わされた私たちも、世界中のキリスト者たちのために祈る立場に回ります。キリスト者は、ひとつに結び合わされた連帯の中で、たとえ顔や名前を知らなくても、互いに祈りに覚え、また挨拶をかわします。私たちも世界中のキリスト者たちと挨拶を交わすような気持ちで、すべての(特に迫害下にある)キリスト者たちの生活、特に信仰生活が主の平和の内にあるように祈りましょう。         (定住伝道者 伊藤築志)

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