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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年11月6日「信仰に留まる」主日礼拝

  • 聖書箇所:イザヤ書36章1-22節

 

キリスト者はこの地上での人生を「私もいずれは天の御国に入れていただける」という確信を持ちながら歩みます。その確信の根拠はどこにあるのでしょうか。「その根拠は聖書にある」と言えますが、その聖書にでたらめが書かれていないのだということを、どのように検証することができるでしょうか。残念ながら、聖書以外の文献や、人間の証言によっては、聖書を検証できません。ですから、聖書にでたらめは書かれていないと信じるためには、聖書の第一の著者である神様を信じるしかありません。

ヘブ11:1には「信仰とは、…見えない事実を確認すること」と書かれています。「我々を救う神が存在する」という事実は見えませんが、信仰とは、その見えない事実を確認することなのです。言い換えれば、信仰する者には、見えない事実を「確認するための根拠」がある、ということです。その根拠は、信仰者本人の主観的な考えや信念ではなく、「外から ―つまり神様から― 」の証言です。ヘブ11:27は、旧約のモーセを、神様からの証言を受けた信仰者の例として挙げています。モーセが「民を救う神様がおられる」と信じられたのは、神様ご自身の証言を聞いたからです。

このように、信仰というのは、神様から与えられるものです。今日は、「その信仰を持ち続ける」ということについて、イザヤ書36章の御言葉から共に知らされてまいりたいと願っています。

イザヤ書36章に知らされている出来事の背景について。ヒゼキヤ王の治世第14年(紀元前701年)に、大国アッシリアがユダ王国を占領し、ユダ王国はアッシリアの支配下に置かれました。ユダ王ヒゼキヤは、一度は全面降伏しましたが、アッシリアの隙をついて再独立しようと、水面下でエジプトと軍事同盟を組み、戦車と騎兵の供与を受ける段取りをつけていました。しかし、それがアッシリア王センナケリブの知るところとなります。センナケリブ王はユダの都に長官(ラブ・シャケ)を遣わし、無駄な抵抗をやめてアッシリアの支配下に留まるよう説得させました。アッシリアにとっては、ユダと戦争をするよりも、説得によって収めた方がコストを抑えられるからです。

ラブ・シャケは、応対したユダの高官たちの肩越しに、民衆にも聞かせるように演説をしました。彼の演説は、ヒゼキヤ王に対する侮辱と、民衆に対する甘い言葉とで構成されていました。

ラブ・シャケは、軍事同盟先エジプトを「折れかけの葦の杖(6節)」と侮辱し、その軍馬・騎兵に頼っても大国アッシリアには勝てないのだと言い、軍事力の圧倒的な差を示します。彼はヒゼキヤ王と、王が依り頼む主なる神をも冒涜します。アッシリアはユダのみならず周辺諸国も打ち負かしていました。周辺諸国には偶像の神々がありましたが、ラブ・シャケは周辺諸国を打ち負かしたことについて「周辺諸国の神々を打ち負かした」と言います。だから、ユダの主なる神もアッシリアの前には無力だという論理です(18-20節)。このままヒゼキヤ王の言葉通り、主なる神に依り頼んでいると、結局アッシリアに負けて、自分の糞尿を飲み食いするかのような辱めを受けるのだ(12節)と、彼は言います。

加えて、ラブ・シャケは民衆に、食べ物と飲み物が確保され、更に、豊かな地に連れて行ってやるという甘い言葉で訴えます(16-17節)。

これを聞いた民衆は、ラブ・シャケの挑発に乗って反アッシリアの思いを強くしたり、誘惑に乗ってアッシリアに従った方が得策だと考えたり、様々な意見を持ったでしょう。それがラブ・シャケの狙いです。国の中で意見が分かれ、一体感を失えば、支配しやすくなるからです。

しかし実際は、民衆は誰一人として、ラブ・シャケの演説に反応しませんでした(21節)。彼らはアッシリアと戦うべきか、アッシリアに同調すべきかを天秤にかけて判断せず、ヒゼキヤ王の「主が必ず我々を救い出してくださる(15節、18節)」という言葉を信じて、王様の戒めのとおりにしてみる、という第三の選択をしたのです。

自分で判断することを控えて「王様の言うとおりにしよう」とする態度は、言い方を変えれば「王様の言うことを信じてみよう」という態度です。ヒゼキヤ王自身も主なる神様をその目で見たり、タイムスリップして王国の未来を見てきたわけではありません。民衆はヒゼキヤ王が当てずっぽうのでたらめを言っているのだと疑う余地もあったでしょう。しかし彼らは、主なる神様に依り頼む王様を信じてみたのです。その根拠は、自分の判断・思い込みではありません。

同時に民衆は、ヒゼキヤ王と同じように主なる神様に依り頼みました。それが信仰です。その信仰の根拠も、自分の考えではありません。外から ―神様から、ヒゼキヤ王の口を通して― 与えられた根拠です。ヒゼキヤ王も、神様の言葉を取り次ぐ預言者イザヤの言葉を根拠として、信仰を持つことができました。主なる神様への信仰は、主なる神様から与えられた信仰です。ですから、神様に依り頼み、信仰に留まり続ける、ということは、決して思い込みや冷静さを失った依存のような危険なものではありません。

私たちが信じるべき神様は、聖書において「既に世に勝っている(ヨハ16:33)」、「死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださった(二テモ1:10)」と証言されている救い主イエス・キリストです。世の中の様々なものが、巧みに、私たちをイエス・キリストの主なる神様から引き離そうとしてきます。しかしそのようなものに惑わされず、ただ、主なる神様に依り頼む信仰に留まりましょう。神様への信仰は、神様から与えられる信仰です。私たちが「信仰に留まるため」にむやみやたらと頑張る必要はありません。神様が、神様の御力によって、信仰を与えてくださいます。神様から信仰が与えられる、そしてその信仰は御言葉によって日々新たにされていく、ということを覚えつつ、今週も踏み出してまいりましょう。

(定住伝道者 伊藤築志)

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