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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年1月16日「主の山に備えあり」主日礼拝

  • 聖書箇所:創世記22章6節-19節前半

 

この物語は、残酷な命令を発する神と神を信じて歩もうとしている者にあえて苦難を強いられるように思われます。そのような神はいったいどんな神なのでしょうか。また神に信頼するとはどのようなことでしょうか。とりわけ信仰のためとはいえ、最愛の子を殺そうすることは倫理にもとることではないかという問いを引きおこしてきた個所です。物語の記述は切り詰められ、抑制された文章ですので、逆に恐るべき緊迫感を孕んでいます。古代が生み出したこれ以上にはない信仰の文学でしょう。古今東西を見回しても、これ以上の信仰文学作品は稀有であると言ってよいと思います。


 1節の「これらの出来事」とは、創世記12章から21章までの神がアブラハムを選び、彼との間に結ぶ契約に関するすべての事柄を指します。神の約束を受け入れて彼は新しい出発をします。紆余曲折の末、永遠の契約を授かり、ついに約束の子イサクの誕生と成長を味わってきたアブラハムとサラにまつわるすべての出来事、それらすべてについてこの言葉は指しています。

 神は「アブラハムよ」と呼びます。アブラハムは「ここにおります」と即答しています。それは、まったく想像すらしない命令でした。2節です。イサクを連れてモリヤの地に行き、その山の一つでイサクを燔祭にせよというのです。燔祭とは焼き尽くすささげもののことです。

アブラハムは朝早く起きます。原文は、「早起きした、アブラハムは、その朝に」です。

この書き方によって、アブラハムはよく眠れなかった、いや全く眠れなかったことが分かる表現です。どれだけの葛藤があったことでしょうか。しかし聖書はアブラハムの心境を一言も記していません。

 しかもモリヤの山に着くまでにも会話がありません。それが読む私たちの心を重いものにします。指示された場所に着いたとき「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻って来る」と二人の若者に乗って来たろばを預けて、そこに待っているようにと命じ置きます。この言葉に、イサクと二人の若者は異常なものを感じたはずです。若者たちは燔祭の介助をするために同道したはずなのに、ここから先は来なくてよいと言われてしまったからです。

 ここに信仰の持つパラドックスあります。アブラハムにはもちろん結末など分かっていなかったでしょう。自分の愛する独り子、自分の希望であり未来を約束するイサクを、神への燔祭としてささげるべく殺さなければなりません。それを引き受けながら、どんな形か全く分からなくても、自分とこの息子が帰還することになると信じる以外にない場面です。どれほど多くの真剣な信仰者が、このアブラハムを襲った胸が裂けるような試練と同質の経験をしながら、そのような場面においても、希望するという選択を生きたことでしょうか。望み得ないのに信じるというパラドックスがそこにあります。全面的に神を信じて、委ねて、信じ切る以外にない生き方が示されているではありませんか。

 それはイエス・キリストのゲッセマネの祈りの場面においても考えさせられます。主イエスはそれまで御父に従い続けることにいささかの疑念も抱いていません。その神への服従の目指す方向は十字架でした。それが人々の罪の赦しと神との和解に欠かせない自分への求めであると御子イエスは信じていました。しかしゲッセマネの園において、自分のそのための歩みを微塵も理解しない弟子たちを目の当たりにしています。十字架に付けられてもその死が何のためであるかは人々に理解されず、したがって罪の赦しは人間のものとはならず、すべては無駄になってしまうとの思いが主イエスをどれほど苦しめたことでしょうか。主御自身によって救いの働きがなされても、無理解の弟子たちが救いを受けるとなるのでしょうか。それなら十字架に進むべきか、それとも人々の求めに応じて、人々の理解できる形でこの世の救い主としての道を行くべきか。そのジレンマの前に立って、主イエスは「死ぬばかりに悲しい」と訴えます。悲しみ悶えて「この杯を取り除いてください」と祈ります。この主イエスの姿こそ、ここでのアブラハムの帰結であったと思えてなりません。主イエスはこの激しい苦しみの果てに、しかし「自分の思いではなく、御心が行われますように」と祈って、神への服従を表明します。しかし神からの答えがないままに、神の沈黙を答えと信じて、敢然と十字架の道へ行くこととなります。アブラハムの思いも死ぬばかりに苦しいものだったに違いありません。しかし彼もまた、命令に服して行きます。

アブラハムは決意しました。彼は「手を伸ばして、刃物をとり、息子を屠ろうとした」のでした。そのとき、新しい事態が起きました。天が開けて起こりました。天からの主のみ使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけてその手を止めさせました。12節「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」というものです。この声には、すでに良い使信の喜びが共鳴しています。「何もしてはならない」という言葉は、その息子には何事も起こらないというのが、初めから神の意図であったことを示唆しています。ここで初めて、「愛する独り子イサクをささげなさい」という命令が、アブラハムにとって神がいかなるお方であるかということが炙り出される試験であったことが明らかになります。

 この時、「神はその独り子を遣わすほどのこの世を愛してくださる」ということが、本当に身に沁みて知ることになります。神の愛は絵に描いた餅のようなものでは全くありません。神が備えてくださる洞察、神が見させてくださること、それこそが御子イエス・キリストの贖いにほかならないからです。このアブラハムの息子イサクをささげる命令は、非常に過酷な命令に思えました。しかしアブラハムに息子イサクの身代わりの雄羊を立ててくださったということにより、生きていてすべてを支配し、裁かれるお方が、私たち信じない者たちのために自らの独り子を惜しまずに捨ててくださったことを重ね合わせることができるのです。


田無教会 中山仰引退教師

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