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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年1月2日「あなたのための祈り」主日礼拝

  • 聖書箇所:ルカによる福音書22章31節-34節

 

 原始キリスト教において2つの神秘的要素は、教祖が最も身近な弟子に裏切りで殺されたこととその師匠を否んだ元背教者のペトロが最高指導者になったことの2つです。ルカはその2つに係わる預言を最後の晩餐の席上において一対のテーブル・スピーチにまとめている点が他の福音書に比べて大きな特徴です。

 ルカはペトロや他の弟子たちの「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」という言葉を省き、その代わりサタンが小麦をふるいにかけるような試練から守られることと、それに対する主イエスの見守りの祈りが付け加えられています。このような書き方によって、ペトロたちの高慢の印象は弱められ、彼らの挫折には悪魔の暗躍があったことと、それらからの立ち直りには主イエスの祈りがあったことが強調されます。

 使徒ペトロは手紙において、(1ペトロ:8-9)<身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。>と警告しています。このように、この種のサタンの積極的試練・ふるいが実在するので、緊張をもって信仰生活に臨みたいものです。

代々のキリスト者たちは、信仰の戦いの中でどれほど苦しい思いをして耐え忍んだのか分かりません。しかしそのような時にこそ、信仰が試されるのです。そこで光るのは、主に対する全面的信頼の美しさです。その信頼以外に立ちおおせる生き方はありません。

 使徒パウロでさえ、その弱さを主に委ねています。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが・・・。」(2コリント13:5)そのように、信仰のあるなしはただ主イエス・キリストが私たちの内にいるかいないかということにかかってきます。

 次に主イエスの十字架の直前に主を裏切ったものの、赦されたその後のペトロの任務と重ね合わせて考えてみましょう。

 第一に、信仰が主に祈られて維持できるということは、信仰はわが身だけのためではないということです。一人のキリスト者の信仰は主と教会の御用のために与えられています。ですから主はペトロの裏切りを見越しながらも「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と励まされています。

 第二に、前の段落の「誰が一番偉いのか」という論争において、26節で「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と主イエスは言われていました。このように主の教会は、失敗を通してでも様々な体験をされた方たちの謙虚な「力づけ」で建て上げられるということです。

 信仰者の信仰の大きさではありません。他人に仕えるとき、わたしがあなたがたに仕えるように、人々を生かすような方向でなければ指導者の値打ちはありません。人々を生かすのは、あなたがたの権力や才能ではなく、ただ主が仕えてくださるような仕える愛だけだからです。

 さらに、ペトロの信仰から教えられることを考えてみましょう。主はペトロの弱さを見抜いていました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われた時の「三度」は「完全に」という意味です。少しだけではありません。完全に主イエスを知らないと言うだろうという予告です。ペトロが「知らない」と言うならば、主は「知らない」と言われます。ルカ12:8「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で知らないと言われる。」とある通りです。

 しかし主イエスはペトロが指導者として立てるようにと完全な「立ち直り」を実現なさいました。「立ち直る」という言葉は、立ち帰って、元に戻ることを意味します。大きな教育の成果と言えるかもしれません。

 私たちがキリストの忍耐の愛の中に帰ることができたのですから、私たちも同じ忍耐の愛に生きるようになれるということです。キリストにそのようにもてなされているのですから、私たちも自分と一緒に生きる者たちを同じようにもてなすべきなのではないでしょうか。それ以外にないのです。

 私たち主の洗礼を受けた者は、主に贖われ救われています。永遠の中に生まれた者として、すでにこの日を生き、この時を生き切っています。洗礼を受けた者は、主の晩餐に招かれているからです。そうであるならば、愛に生きることを断るわけにはいきません。主イエスに着いて行く道を避ける訳には行きません。どのような状況にあっても望みがないなどと言ってられないのです。喜びがないとか、幸せがないなどと言っていられません。すべてに勝る豊かな祝福が今ここにあるからです。

新しい年も主に在って、力強く鷲のように翼をかってはばたくことこそ、主が喜ばれる生き方です。新しい年が、主と共に祝福された年となるように、心からお祈りしています。


田無教会 中山仰引退教師

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