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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2023年4月16日「全世界に向けて語られる復活」主日礼拝

  • 聖書箇所:使徒言行録2章1-13節

 

イースターの週を過ごして、主の復活の喜びに満たされると共に、復活を伝えることの難しさも覚えます。未信者の方に復活の希望を語っても、相手に伝わったかと問われると…手ごたえのなさを覚える場合が多い気がします。(大宣教者パウロも同様でした:使徒17:32~。)

それでもイエス様は、教会に、復活を証しする困難な働きに努めるよう求めておられます。今日の、教会が歴史上最初に、教会外の人たちに復活を証しした記事から、教会がどのように復活を語り始めたかを読み取ってまいりましょう。

イエス様は、弟子たちに、エルサレムで聖霊を待つようにとお命じになっていました(1:4)。弟子たちが祈りながら聖霊を待ち続けて10日ほどすると、五旬祭の祭日が来ました。その日、多くのユダヤ人たちがエルサレムの神殿に詣(もう)でます。ユダヤ民族は歴史的な経緯から、各地に散在し、現地の人々の間に寄留して住んでいました。「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」(5節)と記されていますが、彼らは祭日に神殿に詣でるため、家や家族を遠方に残したままエルサレムに住んでいた人々だと思われます。

信心深いユダヤ人たちが神殿で祈りをささげる五旬祭の朝九時(15節)ごろ、弟子たちも神殿で集まって祈っていました。すると、そこに、聖霊がついに下られたのです。聖霊が下るとき二つのしるしが伴いました。 ①激しい風が吹いてくるような音(2節)。霊を表す「プニューマ」には、他に「息・呼吸・風」という意味もあり、風のような音は聖霊を思わせます。目に見えない聖霊は、風のような音を伴いながら、集まっていた弟子たちに分かるように下られました。 ②炎のような舌(3節)。舌は、言語を司る器官です。聖霊は、言葉や言語を予感させる見える形を伴って下られました。実際、このしるしの後、弟子たちは「“霊”が語らせるままに…話しだし」ました(4節)。聖霊というイエス様からの賜物は、「話しだす」という仕方で用いられます。聖霊によって弟子たちが語ったのは、「神の偉大な業(=聖書の預言の成就であるイエス様のこと。受肉・十字架・復活・昇天)」(11節)です。

イエス様は、120人の弟子たちにとどまる聖霊の働きが最大限に発揮される時・場所を見計らって聖霊をお送りになりました。五旬祭の朝九時だったので、平日よりも多くの人が物音を聞いて神殿の弟子たちのところに集まりました。これが、他の日や時刻・他の場所(弟子たちの故郷ガリラヤなど)ではだめです。後になって思えば、弟子たちは、聖霊がとどまった後の働きの効果を最大限に発揮するため、エルサレムで聖霊を待つようにと命じられていたのでした。

この時集まった「信心深いユダヤ人」たちは、西方の公用語であったギリシア語・東方の公用語であったアラム語のどちらか(あるいは両方)を自由に使える人々でしたが、それぞれに故郷の方言や言語をもっていました。彼らの日常会話は、よそ行きの公用語でなく、自分の方言・言語でなされました。9-11節には15の地名が記されていますが、聖霊に満たされた120の口からは、その15の言語(あるいはもっと細かい方言も?)が溢れていたのでしょう。

しるしとして舌の形を伴って下られた聖霊は、世界公用語でなく、世界中すべての人の日常語で福音を語る力を、弟子たちに授けたのでした。

集まった人々は、120の口から、エルサレムで聞けるはずのない、遠く遠くの故郷の言葉で「神の偉大な業」が語られているのを聞きました。外国で流暢な日本語が聴こえてきて、しかしその語り手が日本人旅行者ではなくガリラヤの格好をした「ガリラヤ人」だったときの驚きを想像してみましょう。同じような衝撃を受け、集まった人々はあっけにとられて驚き怪しみました。ところで石川啄木の歌に「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく」というのがあります。啄木は上京後、上野駅の喧騒の中に故郷岩手の言葉を聞いてホームシックを癒したのでしょう。喧騒の中でも不思議と、自分の故郷の言葉は聞き取れるものです。集まった人々も、120の口ぐちからの言葉に、自分の故郷の言葉を聞き分けました。その言葉は、頭の中にスッと入りこむような感覚だったでしょう。そういう、身近な言葉で語られた事柄には、興味が湧きやすいものです。「いったい、これはどういうことなのか」(12節)と、興味津々です。

もし、聖霊に満たされた弟子たちが、この時、公用語のギリシア語・アラム語だけで語ったなら、その内容は集まった人々皆にいちおう把握されたでしょう。しかし、よそ行きの言葉では、全員の興味を惹くことはなかったでしょう。聖霊が導く最初の宣教は、公用語ではない、聞かせる相手一人一人に合わせたお国言葉で、「聞く者の興味をひく」という方法でなされました。

この時は、エルサレムに住む信心深いユダヤ人だけに福音が語られたのであって、諸外国に住む全ての人に向けての世界宣教が始まったわけではありません。しかしこの時、聞く人々一人一人に合わせた言葉で福音が語られたということは注目に値します。聖霊は、復活の福音を、聞く側の相手の言葉に合わせて語らせるのです。

田無教会は宣教師の開拓で生まれた教会ですが、日本語で・日本人の興味をひくような言葉で福音が語られてきました。今教会が行う伝道も同じです。日本人に合わせてただ日本語で語ればいいのではありません。高齢者・働き盛り・病者・若者…相手に合わせての適切な言葉遣いで語ることが大切です。言葉や興味を相手に合わせながら復活を語る時、復活が、相手の興味の対象となるのではないでしょうか。イエス様ご自身も、相手に合わせて語られたお方です(ルカ5:10ほか)。福音を語る時、パウロもそうしました(一コリ9:20-22)。

未信者のご家族・ご友人が興味を持って聞くのは、身近なあなたの言葉です。あなたの口が、宣教の最前線にあります。復活は、相手に合わせたふさわしい言葉を与えてくださる聖霊の賜物によって、全世界の人々に、信徒一人一人の口を通して語られます。

(牧師 伊藤築志)

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