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2025年3月9日「的外れな返答」主日礼拝

日本キリスト改革派 田無教会
  • 聖書箇所:ヨブ記11章1-20節

  • 伊藤築志牧師


2025年3月9日 田無教会 主日礼拝式説教要約

「的外れな返答」(ヨブ記11:1-20)

 

神様に従う無垢で信仰深い「ヨブ」は、人生のある時まで、神様からの恵みをいっぱいに受けて暮らしていました。しかしある日を境に、彼の人生は一変したのです。神様からの恵みの供給が途絶えたことで、ヨブは、まるで神様が態度をすっかり変えてしまったかのように思い、信頼を置いていた神様に裏切られたような苦悩を覚えました。それは死よりもつらい苦悩でした。

9章でヨブは、あまりの苦悩に混乱していて神様に対して言いたいことも言えない、と嘆きました。また10章では、「もし仲裁者がいたら、神様にこう訴えたい」という心の内を吐露します。その心の内とは、せめて暗黒の死の国に移るまでの数日間、神様がヨブを苦しめるのをやめ、平穏の内に置いてください、という訴えです。

ヨブを見舞っていた友人ツォファルは、9-10章のヨブの言葉に答えて語りました(11章)。ツォファルは何を語ったのでしょうか。そしてそれはヨブの慰めになったのでしょうか。

残念ながら、ツォファルの言葉はとげとげしく、とてもヨブを慰めそうもありません。彼はヨブの言葉を「無駄口」「嘲りの言葉」(3節)と形容します。ツォファルには、ヨブが人と神様を説き伏せようとしているかのように見えたからです。しかし、どんな雄弁も少なくとも神様を説き伏せることはできないので、最終的にはヨブ自身が恥じ入ることになる、とツォファルは説きます。

ツォファルが言うには、ヨブが恥じ入らねばならないのは、ヨブの考えが間違っているからです。5-6節。ヨブは「神様がなぜ私〔ヨブ〕を罰しているのかわからない」と独白するのですが、ツォファルは「いや、本来あなた〔ヨブ〕が受けるべき刑罰を、神様が減刑してくれていることが、神様が口を開けばあなたにわかるだろう」と返します。ツォファルは、ヨブを優しく励ますのではなく、厳しい言葉で刺激して現実を突きつけようとしているつもりのようです。

しかしツォファルの言葉はあまりに冷たく、ヨブを突き放すばかりです。なぜなら、彼はヨブの苦悩を理解しないで語るからです。ヨブは神様に大胆に訴えつつ、観念し、なおも神様に服従しています。ヨブの独白は、その苦しみの中から出てきたものです。しかしツォファルはそれを理解せず、ヨブの言葉を単なる「無駄口」「嘲り」と聞き、ヨブの独白を「自身の正しさ・潔白さの主張」と誤って要約しました(4節)。ヨブは自身を潔白だと言っていないのに、です。ツォファルはヨブの独白を曲解しました。ここに、ヨブと、ツォファルとの食い違いがあります。

食い違いを抱えたまま、ツォファルは言葉を継ぎます(7-12節)。人間には、神様のすべてを究め尽くすことができない。神様から見れば、ヨブは愚かなろばの子のよう。だからヨブが神様に自身の潔白を訴えても、その訴えは詰めが甘く間違っているのだから、神様はそれについて聞き入れる必要がない。神様を訴えるのは身の程知らずのことだ。…と、ツォファルは言いたかったようです。

しかし、ヨブは神様に断罪され罰せられるなら、その罰は甘んじて受けようとはしています。ヨブの言葉と、それに対するツォファルの言葉とは、本当に噛み合っていないのです。

ツォファルがヨブの苦悩を理解しないのは、ツォファル自身、神様を「ヨブの訴えを聞き入れる必要のないお方」、すなわちヨブに寄り添わないお方だと理解していたことに原因があるように思われます。そのような神理解が13節以下にも見られます。ツォファルが言うには、神様がヨブに寄り添うか否かでなく、ヨブが賢く振る舞うか否かによって、ヨブの先行きが変わります。ツォファルが理解している神様は、ヨブが賢く振る舞うのをただ待つ神です。だから、ツォファルもヨブに寄り添う必要を感じていません。むしろ寄り添わないのがよいとさえ考えているかのようです。彼はヨブと関わりを持ち、励まそうとしますが、その励ましはヨブの外側からの、とげとげしい刺激に満ちたものにしかなりません。

しかし、ヨブが知っている神様は違います。少なくとも一時期、ヨブに寄り添い、祝福してくださった神です。その記憶があるからこそ、ヨブは今、神様との関係に悩むのです。ヨブが知る神様は別次元から次元を超えてヨブの所へおみえになり、ヨブを愛してくれた神です。

神理解の差が、会話がちぐはぐになるほど大きなすれ違いに発展する、ということが、11章のツォファルの言葉によって浮き彫りになっていると思われます。ツォファルの神理解に、間違いはありません。ただ、偏っているのです。神様は、人間を愛し、主の民を祝福の源として選び、キリストによって自らを犠牲にしてまでも、罪人を悔い改めに導かれるお方です。そのために寄り添われるお方です。聖書は「神は愛」(一ヨハ4:8,16)という真理にも焦点を当てて、私たちに教えてくれています。しかし「神は愛」という側面を、ツォファルは見逃しています。この見逃しが、ツォファルの返答の「的外れ」さの最大の原因でした。

ツォファルのような失敗を、私たちもするかもしれません。あるいは逆に、「神は愛」を強調しすぎて、「神は極み尽くせない」を見逃し、毒にも薬にもならない安っぽい言葉で友人を励ます失敗もあるかもしれません。どちらの失敗にも陥らないように、私たちは、「聖書全体から、真理を知る」という決意を、きょう、新たにしたいと思います。確かに聖書は分厚いですが、諦めず、全体に取り組む必要があります。聖書全体から真理を学ぶことは、人間の能力を超えていますが、聖霊なる神様が私たちの弱さに寄り添って、助けてくださるゆえに、私たちにも可能なことです。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(二テモ3:16-17)。苦しみ喘ぎ嘆く友人を励ますことができるように、聖書を通して私たちを十分に整えてくださるのは、他でもない、限りなく偉大、かつ、救われるべき人に寄り添う愛なる神様なのです。                                        

(牧師 伊藤築志)

 

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