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2025年3月16日「神への歪んだ畏れ」主日礼拝

  • 執筆者の写真: 日本キリスト改革派 田無教会
    日本キリスト改革派 田無教会
  • 3月13日
  • 読了時間: 5分

更新日:3月27日

  • 聖書箇所:ヨブ記12章1-25節

  • 伊藤築志牧師



神様に従う無垢で信仰深い「ヨブ」は、人生のある時まで、神様からの恵みをいっぱいに受けて暮らしていました。しかしある日を境に、彼の人生は一変したのです。神様からの恵みの供給が途絶えたことで、ヨブは、まるで神様が態度をすっかり変えてしまったかのように思い、信頼を置いていた神様に裏切られたような苦悩を覚えました。それは死よりもつらい苦悩でした。

ヨブを見舞っていた友人ツォファルは、ヨブが吐露する胸の内を聞いて、彼にとげとげしい非難の言葉を浴びせました(11章)。ヨブの言葉が、神様や友人たちへの嘲りに聞こえたからです。その非難に対する、ヨブの返答が12-14章です。きょうは特に12章に注目します。

ヨブはまず、ツォファルの非難の「言いすぎ」な部分に反論します(2-4節)。ヨブは「わたしにも心(知性)はある」と言い(11:12への反論)、自らを「神に呼びかけて、答えていただいたこともある者」と呼びます(11:5への反論)。さらにそんな自分が「物笑いの種」になっていると訴えます。ツォファルら見舞い客に、ヨブを物笑いにする意図はありません。彼らは、ある種の憐れみをもってヨブに接してくれる仲間たちです。しかし彼らは、ヨブが陥った「どん底」まで下って彼に寄り添うということまではしませんでした。ヨブには、彼らの視線が、高みから見くだすようなものに感じられたのでありましょう。

ヨブは、そのような高み(安全地帯)に自らを置こうとする友人たちを「安穏に暮らす者」と呼び、非難します(5-6節)。ヤコブの手紙2:15-16に指摘される通り、貧しい人と貧しさを分かち合わないなら、それは何の助けにもなりませんが、それと同じように友人たちもヨブと苦難を分かち合わないで、安全地帯からいろいろ言っているだけだ、とヨブは批判します。

ヨブのこの批判は、「正しい方向に思いをはせ、神に向かって手を伸べるなら」安泰だ、とするツォファルの発言(11:13-19)への反論でもあります。ツォファルが言う勧善懲悪の原理は気持ちがいいですが、絵に描いた餅にすぎません。現実においては、他人の権利を奪ってまで自らの安全を確保しようとする者が安穏としており、奪われた弱い立場の者が苦しんでいます。

ヨブはツォファルに現実を見るよう促します(7-10節)。神様の知恵がよく反映された自然界を見れば、世界の秩序は勧善懲悪ではないと分かります。ヨブが見ている世界は、神様の絶対的な支配の中にある世界です。そこでは干ばつや水害が起き、知恵ある者が迷ったりします(14-25節)。それら害悪はすべて、神様の知恵によることだ、とヨブは言うのです。ヨブはこうして、ツォファルの勧善懲悪的な考えを批判し、もっと現実に ―国のリーダーさえも路頭に迷わせるほど大きな神様の御力に― 目を留め、神様を畏れよと主張するのです。

しかしながら、ヨブが言っている神様は何だか「気まぐれな全能者」のような感じがします。人間にとっての害悪の根源であるかのようでもあります。17節から24節までの主語は「神は」ですが、ヨブの考えによれば、世界におけるすべての害悪が、神様から出ているかのようです。害悪の源である存在を、ヨブは全能者として畏れ、その御業の大きさを示します。

では、本当に害悪の根源は神様なのでしょうか? そうではありません。地上の害悪は罪を犯したアダムのゆえです(創世記13:17)。諸悪の根源は、神様に逆らった罪、ひいては罪を犯した人間、なのです。アダムをはじめとする人間全体の罪が、被造世界全体の呪いの原因であり、被造世界全体の害悪を引き起こしている、ということです。

他方で神様は、諸悪の根源でないばかりか、罪を犯した人間さえも害悪からお守りになるお方です。神様は罪人を、罪ゆえの害悪から被害を受けないようにお守りになりました(創世記3:21、4:15参照)。罪に対する罰は、害悪に任せてでなく、神様が手ずからお下しになります。このように神様は、勧善懲悪ではなく、完全な弱肉強食でもなく、人間の罪ゆえの害悪から人間をお守りになるというやり方で、人間社会を支配しておられるのです。

だから人間は、世界にはびこる害悪を目の当たりにするとき、害悪の原因となった罪・自分自身の罪深さを思い起こして、神様の前で悔い改めることが必要です。しかし残念ながらヨブの畏れは、害悪の責任を神様に押し付けた、歪んだ畏れでありました。

神様を畏れ敬うことは人間にとって必要不可欠なことです。しかしながら「神様をどのような方として畏れるのか」を見失っては意味がありません。ヨブの場合は、神様を「偉大な力をもって、ヨブを苦悩に落とす全能者」として畏れています。ヨブの「畏れ」は「恐怖」に基づくものです。しかし、聖書が示す神様のお姿は、ただ「偉大だ」というだけでなく、「偉大、かつ、人間を害悪からお守りになる方」です。私たちは、神様が人間を愛してお救いになるお方だからこそ、神様に信頼をもって近づき、畏れ敬うことができるのです。その「畏れ」は、愛に基づく畏れです。

世界にはびこる害悪の原因を神様に帰すことはナンセンスです。神様を畏れる者は、聖書が教える通り、その原因が人間の罪にあることを覚えなければなりません。私たちは本来、自らが招いた害悪に呑み込まれて滅ぶべき存在です。しかし、神様が守ってくださり、そればかりか永遠の命まで与えてくださいました。私たちの罪深さと、神様の愛の深さ。このギャップを覚えるとき、私たちはキリストの救いがいかにありがたいことであるかを実感できます。私たちは、神様を、ただ「偉大だ」というだけでなく、救いの神として畏れ、崇め、礼拝すべきです。

「すべての害悪の責任は人間にある」と聞かされるのは、人間としてはつらいことです。その責任を、誰も負いきれません。しかし、悲観する必要はありません。キリストが、私たちを罪ゆえの責任から解放してくださったからです。イエス様は、罪なき方であるにもかかわらず、私たちと苦しみを共有し、私たちの罪を一緒に担ってくださいました。この救い主なる神のご存在だけが、私たちの希望です。全能の神様を、諸悪の根源としてでなく、諸悪から救ってくださる方として、畏れ敬いましょう。

(牧師 伊藤築志)

 
 
 

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