top of page

2025年4月13日「処刑される救い主」主日礼拝

  • 執筆者の写真: 日本キリスト改革派 田無教会
    日本キリスト改革派 田無教会
  • 7 日前
  • 読了時間: 5分

更新日:11 分前

  • 聖書箇所:ルカによる福音書23章39-43節



今週「受難週」は、特にキリストの十字架での受難と死に心をはせたいと思います。「いま生きておられる」イエス様は、単に「生きながらえている」のではなく、「死に打ち勝って永遠に生きておられる」救い主です。「死に打ち勝って」ということは、来週お祝いするイエス様の「復活」で表されます。さて、「復活」ということですから、イエス様はその直前には「死んでおられた」のです。その死は、イエス様を嫌い、愛さず、イエス様の不当な裁判を傍観していたあまねく人間の罪ゆえに「処刑された・殺された」ゆえの詩でした。イエス様の死は、あまねく人間の罪の絶頂でもありました。

イエス様の死に心をはせる時、私たちは、自らの罪に目を向けなければなりません。自分の思い・言葉・行いの中に、イエス様を嫌い、愛さず、裁判を傍観するような要素がないかを点検する時、(小さくとも)確かにその要素を見いだすことでしょう。それが、私たちの罪です。きょうはイエス様の十字架に関する御言葉を通して、私たち自身の罪を見つめ、イエス様への懺悔をしてまいりたいと思います。

イエス様は、犯罪者として最も重い刑罰「十字架刑」に処せられました。ほかにも二人の犯罪人が十字架につけられました(32-33節)。二人の犯罪人は、政治的カルトの構成員(熱心党員」であったとみられ、おそらく反社会的破壊的活動のゆえに十字架刑に処せられたのでありましょう。イエス様は、彼らと同列に見なされ ―むしろ彼らのリーダーかのように扱われて― 十字架につけられたのです。

十字架刑は犯罪人を縛りつけ、衰弱させて死に至らしめる刑罰です。致命傷は加えられず、受刑者は長時間の苦痛を味わいます。また、十字架刑は公開処刑であり、受刑者はあざけりをも受けました。34-38節の、イエス様をののしる有様にも、人間の罪が極みに達して暴走した結果、どんなひどいことになるのかということが表れています。

イエス様は一緒に十字架につけられた犯罪人にもののしられました(39節)。イエス様をののしった彼は、理想に燃えて活動した結果の十字架刑に納得せず、死の運命に抵抗しようとします。それと同時に、救い主を名乗りながら十字架上で抵抗しないイエス様に腹を立てています。 ―自分自身と我々を救わないあんたは、メシアではない。偽物だ― そんな腹立ちによって、彼は、十字架の下でののしる者たちと一緒に、衰弱しつつある中で力いっぱい、イエス様をののしりました。イエス様を殺し、ののしるのは、処刑する側/される側の立場の違いを超えた、あらゆる人々の罪なのです。

もう一人の犯罪人は、最初は片割れと一緒にイエス様をののしっていたようですが(マタイ27:44、マルコ15:32)、のちに心変わりし、片割れを「たしなめ」ました(40節)。何をきっかけにして彼が心変わりしたのかは定かでありませんが、確実なことは、聖霊が彼に働きかけ、イエス様を救い主と信じる信仰が与えられ、罪を離れて180度の方向転換をしたということです。彼もまた衰弱しつつある中にありましたが、力いっぱい、悔い改めて、信仰に基づく行動を取ったのです。実に、死に臨んでもなお信仰に生きるという生き方があるのです。彼は、イエス様に熱心党員のような落ち度はないと表明した(41節)上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました(42節)。彼は、イエス様が死後に「イエス様が支配する御国(天国)」に行くと考え、せめてイエス様の記憶の片隅にも留まりたいと申し出たのでした。この言葉こそ、彼の、素朴な、信仰の告白でありました。

どんな罪人、またどんなにこの先の命がない人にも、聖霊が働くということがあります。この犯罪人の回心の事例には、人間の罪の悲惨さの更に上を行く神様の恵みが表れています。

イエス様は回心した犯罪人の願いに対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とお答えになりました。この言葉は未来形ですが、「今日」のことだと言われています。イエス様がおっしゃった「楽園」が死後の世界だと考えるのは早計です。なぜなら、十字架刑で息絶えるのは「今日」とは限らないからです。このときは、3人ともその日のうちに息絶えたと思われるのですが、イエス様がそれを見越して「今日、我々は死後の世界に行く」とおっしゃったわけではないでしょう。そうではなくて、「今日これから」、イエス様と“あなた”とが共にいる、とイエス様は宣言されたのです。イエス様と共にいるところ。それが十字架上であろうが死後の世界であろうが、そこが「楽園」なのです。この犯罪人は、十字架上で、衰弱の一途をたどりながら、「あなたはこれから救い主イエス様と楽園にいる」という宣言を頂いたのです。

イエス様の十字架での死、またイエス様へのののしりは、人間の罪の大きさ・悲惨さ・どうしようもなさを物語ります。同じく悲惨でどうしようもない罪を、私たちも、内に持ちます。ここに集う礼拝者も、かつては「イエス様は十字架で死なれた」と聞いて「ふーん」と聞き流したことがある、罪人でした。私たちも、十字架の周りでイエス様をののしった人々と同じ罪を犯しました。

しかし、その罪人の一人が悔い改めてイエス様に信仰を告白すると、イエス様はその罪人に、今日これから、イエス様と一緒にいるという救いを宣言なさいました。彼は「死んだら天国に」ではなくて、その刑場で既に、救いに与(あずか)ったのです。罪人の一人であった彼が悔い改め、信仰を告白し、救いに与ったのは、ただ、聖霊の働きによることでした。

それと同じ聖霊が、イエス様をののしっていた罪人と大差ない私たちにも、注がれています。その結果、私たちの内に悔い改めと信仰とが起こされ、イエス様から救いの宣言をお伺いするに至りました。「はっきり言っておくが、あなたはきょうわたしと一緒に楽園にいる」。私たちは、今日これから、地上での人生においても、救い主と一緒に楽園にいるというこれ以上ない救いの恵みに与るのです。この後の聖餐式は、地上における、楽園での宴です。

(牧師 伊藤築志)

 
 
 

Comments


© 日本キリスト改革派 田無教会

bottom of page