top of page
検索
  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年4月5日「思いがけずに来る主」 受難記念礼拝

  • 聖書箇所:ルカによる福音書12章35-48節

  • メッセージ:中山 仰牧師

 

 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと「目を覚まして」待っている人のように、「腰に帯を締めて」準備して待っていなさいという意味です。

 その第1の理由は、主人の方が腰に帯を締めて、その僕たちを食卓に着かせて、そばにいて給仕をしてくださる光栄があるからです。もちろん、イエスさまの贖いに基づいて主人の食卓に着かせていただく光栄に満ちた誇張的比喩です。この恵みに感激、興奮して私たちは目を覚ましているべきです。

 第2に、40節の「人の子は思いがけない時に来るからである」という再臨の理由からです。ユダヤの婚礼は夕刻から始まるので「真夜中」まで長引きがちです。主人の不意の帰宅即ち再臨が「泥棒」のたとえで説明されるように、主の到来を心を眠らせないで対処しなければなりません。

そもそもこの主の説教は元来何を教えていたのでしょうか。40節「人の子が思いがけない時に来る」というのは、旧約聖書の教えによると「聖徒である民に国と主権が与えられる」ことでした(ダニエル7:27)。群衆や弟子たちはその言葉を、メシアのエルサレム入城に直結させていました。しかし主イエスは人びとのその甘い見通しを否定されます。そして、なんとメシアの死の予想と結びつけられます。50節「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」と予告されます。メシアが上げられる時、すなわち木にかけられるとき「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と言われ、御国が成就します。

 問題はその“時”に弟子たちは目を覚ましていたでしょうか。ゲッセマネの園で、人の子のその日その時は泥棒のように襲ったのではなかったでしょうか。つまりその時弟子たちが全員眠っていたということは、教会が眠っていたと言ってよいのです。ですから教会は、今度こそ人の子の再臨に目を覚ましていなければならない、と新約聖書は教えるのです。ヨハネの黙示録3:20「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事し、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と主は待ち受けている者を歓迎して招きます。

 その上で41節「何はともあれ、神の国を求める」生活のためには、「天に宝を積む」工夫と「目を覚ましている」用意が必要でクリスチャンの自己管理が必要であることを教えています。

 それをもっと明確にするために、ルカはペトロの質問をここに挿入させて特に教会員の問題意識を掻き立てています。「目を覚ましている」言葉については、特に役員の任務を表す術語に用いられています。「良い行いと施し」は神に喜ばれるいけにえです。

 またマタイでは「しもべ」とか「仲間」と呼ぶ者たちを、ルカは「(忠実で賢い)管理人」と「下男・女中」に変えています。さらに主の報い方の原理を教えるために、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多くを要求される」と47-48節の注釈を付記します。これほどまでに編集上の手を入れて、役員の勤務心得の性格を明確に打ち出さざるを得なかったのは、すでにルカの時代の教会に、不忠実な管理人が横行していたからのほかならないと榊原康夫先生は指摘しています。

 もちろん管理人とは、教会では御言葉の「食べ物」を神の家族に与える者のことです。そのためには第一に「思慮深く」あることです。その反対が「主人の帰りはまだだと心の中で思う」ことで、大きな勘違いです。それは、主人は永久に帰ってこないという思いから管理人としての身分を忘れることから起こります。第二に管理人は「忠実」であるべきです。その反対が「食べたり、飲んだり、酒に酔ったりし始める」ことです。そして下男や女中という委託された者たちを、自分を楽しませるために私用に使うことです。このような横暴なふるまいには厳しい罰を与えるべきでしょう。

 ペトロはご存知のように、主イエスから十字架の時に裏切りを予告されていたにもかかわらず、「主を知らない」と三度も否認した張本人です。ゲッセマネの園で主イエスがひどく恐れもだえ始められた時も眠っていました。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われたことが強く背景にあったと思います。そのペトロは後日、手紙の中で「だからいつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(1ペトロ1:13)と私たちを励ましてくれます。

全く無罪のイエスさまが鞭打たれた上に、十字架につけられました。何の罪状で鞭打たれたのでしょうか。それはただ私の罪のためです。受難週にあたり、今一度主の御苦しみを自らの罪に重ね合わせて悔い改めねばならないと思っています。


田無教会牧師 中山仰

閲覧数:104回
bottom of page