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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年5月3日「今の時代を見分けよ」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書12章54-59節

  • メッセージ:中山仰牧師

 ユダヤ人の天気予報術は、「西(つまり地中海上)に雲が起こる」と「にわか雨」が来ることになります。南方のつまり西側のネゲブ地方から「南風が吹きだす」と「暑い日」を予測するものでした。それは「見るとすぐに」判断をくだせるほど自信満々の結論です。事実「その通りになります。」  ところが、この有能な予測者たち、未来学者たちが「今の時を見分けること」になると無能だというのです。時のしるしがないわけではありません。イエスさまの宣教のほかにも、バプテスマのヨハネの預言やローマの官憲との衝突があって、ユダヤ民族のただならない未来の前兆はあります。ただ、彼らはそれを見ようとしないのです。預言者たちも度々預言しますが聞こうとしないで、バビロン捕囚となってしまったのです。その意味からいったら彼らは「偽善者たち」です。  後半で主は、今の時代の性格を分からせるために、13ですでに述べられていた遺産分配争いの兄弟を例に引いてたとえを語られています。12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。すなわち今の時代は最後の審判に至るまでの「途中」であるということです。この機を逸すると、判決から有罪を免れることはありません。なぜなら、12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」というのは、「一レプトン」はギリシア貨幣の最小単位で一日の賃金である1タラントンの128分の1です。そのような表現で言いたいことは、ファリサイ派の人々に回心してイエスさまを信じる時が残されていることが告げられています。同時にこの時を失うと二度と機会が与えられないということなのです。なぜなら、「最後の1レプトンを返す」べき負債は、命をもってしても払えない「罪深さ」という負債なのですから。  今の時が最後の審判への途中だということは、人の生涯には、遺族や後世の評価がどう変わろうとも、真実には唯一の評価しかないということを教えています。その唯一の真実な評価と意義を決めるのは、今生きているこの時の生だけなのです。  主イエスによれば、今が「途中」であるという思想は、聖書の学びのほか、天気予報と同様の世相の歴史の学びからも得られることです。決して浮世離れしていてはなりません。コロナウィルスの世界的蔓延で私たちも実感を深くしているのではないでしょうか。  ピントを合わせて、この時代の途中性洞察できた人は、途中でその人と仲直りするように努めなさい。とイエスさまから和解を勧告されています。では「今の時(時代)を見分ける」ためにはどうしたらよいのでしょうか。  ルカの前半の「時代を見分ける」ということは、人格ある人間は、計画的に、つまり未来を予測しつつ生きるものであり、姓名判断や易、占いはそうでない堕落例です。最も本能的であり原始的なものは、天気と季節の予測です。季節感を失った現代の都市生活者は未来学に熱中していて、足元を見ることができないようです。  同様に信仰者の信仰告白は、人間の確信や意見が私的なまた無責任な呼び交わしではなく、告白を共同で語るとです。それはそのまま主の聖餐に臨む態度につながります。通常聖餐に預かりながら、時代を見分けることができていないとするならばそれは問題でしょう。聖餐において常に私たちは主の死を告げ知らせているからです。聖餐においては、主イエスが家の主人、食卓の主催者である。それどころか、主ご自身が食物であり、飲み物なのです。聖餐に預かるということは、主が私たちに属するお方として、ご自身を新たに与え、贈ってくださることによって、また新たに本来主に属する者としての確信を強めるようにとこの食事によって生かされているからです。  その聖餐に預かるたびに、「自分を吟味」しなさいと警告されています。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(1コリント11:29)この警告の言葉は、今日のテキストと重ねると「時代を見分けよ」にもつながります。聖餐は機械的に預かるものではありません。キリストの肉と血との交わりに預かることに対して用意ができていることです。その中でこそ、明らかになってきます。  そのような信仰の吟味というべき歩みをするときに、ピントを合わせて「途中性」を洞察できるようになります。もちろん自分の中には全く信仰の根拠はなく、聖餐に招いてくださるイエスさまによってのみ可能です。その主が、神に立ち返る「熱心な仲直り」を勧告されています。裁判官である父なる神の御前に立つとき、御子イエス・キリストが私たちの前に仲直りの、和解の弁護士となってくださいます。和解は神から出ます。和解の福音を受け入れるならば、「今は恵みの時、今こそ救いの日」と変わります。  今では、列車も宿も予約なしには安心して旅もできません。しかしキリスト者はなんと幸いでしょうか。予約席があるので安心して地上を旅することができます。どんな嵐の時でも、悪性ウィルスの蔓延する時でも、地震や台風や大きな災害の時でも。それこそ死という現実の前に、人々が恐れでなすすべのない途方に暮れる時にも、私たちは御国の住民として、主イエスの国へ凱旋するために、主の導きの下に御国へと旅立つ幸いを得ています。

田無教会牧師 中山仰

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