聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書13章22-30節
メッセージ:中山仰牧師
この個所には23節の「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という言葉と、段落の終わりの30節の「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」という言葉が引っかかって来ます。
1.そのようなことを解き明かすために、初めにここの並行個所であるマタイによる福音書の8章11節-12節を見てみましょう。ここはローマ人である百人隊長の僕が癒される記事です。彼はイエスさまの本当の力を信じて、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。(私は軍人ですから)ただ、ひとことおっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と答えたので、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれらほどの信仰を見たことがない。」と彼の行為を称賛された後の言葉がショッキングです。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう。」というのです。
2. 預言者イザヤも「ヤコブの残りの者が、力ある神に帰って来る」(イザヤ10:21)とイスラエル全員ではなく「残った者たちだけ」が帰って来ると告げています。その背景には壮大な神の救いのご計画が流れています。
神に逆らい、遣わされた預言者たちの言葉を聞かなかったイスラエルの民は結局バビロンに捕囚となりました。捕囚後は、ファリサイ派やサドカイ派、エッセネ派の人々は、自分たちこそ大きな試練を通り越した義人であるとかってに答えていたのです。そのような彼らに対して、主イエスの厳しい言葉に彼らは耳を塞いだばかりでなく、結局はイエスさまを殺そうと企み、事実十字架へと赴かせたのです。
そのような彼らの恐ろしい業にもかかわらず、使徒言行録でペトロやステファノによって、御神の御救いの手が差し伸べられている説教を聞いて悔い改めが生じたのです。ですから「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という問いかけではなくて、実に多くの人々の反抗にも関わらず、救いの御手が差し伸べられているという恵みを喜び、その御手にしがみつく行為こそ尊いのではないでしょうか。
3.それでももう一つの30節「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」という言葉を巡って考えてみましょう。
(1) 「狭い戸口と広い戸口」とはこの世の2つの生き方の対比ではありません。戸が閉じる時を境とした現世と来世との対比から見た時間的狭さを教えています。戸締りの時が来てから「入ろうとする」のは遅過ぎるということです。マタイ25章の「十人のおとめ」のたとえの話で、花婿を待っていた賢い5人の乙女は迎えるための油を用意していましたが、愚かな5人の乙女たちは買いに行っている間に婚宴の席の戸が閉められてしまいます。ルカは13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。と示しています。
この主人とは、イエスさまのことです。父なる神ではありません。ユダヤ人が親しく「御一緒に食べたり飲んだりした」ナザレのイエスのことです。まあ「わたしたちの広場で教えを受けた」歴史の中で共に歩んでくださった主イエスです。このお方以外にありません。
(2)もう一つの狭さがあります。戸締りに時に、そこに入る資格はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるという縁故関係ではないということです。
分かりやすく言うと、肉体的に本質が生まれ変わっていない人は締め出されるという狭さと言えます。内的に生まれ変わった人の特性は、「狭い戸口から入る」努力を払うようになります。「努力とは」信仰の戦いを戦い抜くことです。または朽ちぬ冠のために「競技する」と訳されていることです。選民も異邦人も狭い戸口から入る信仰の実存的な努力の戦いをすべきなのです。
4.このことについて「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」という言葉がどのような時に用いられているかを少し引いて考えましょう。マタイによる福音書20章です。
(1)ここは不思議なお話です。朝から疲れ一日中働いていた労働者と夕方になっても仕事にあぶれていた労働者との賃金支払い行為です。最後に雇われたわずか1時間しか働かなかった労働者が一日分の1デナリオンが支払われたのですから、朝から働いていた労働者たちは当然多くもらえるだろうと思っていたのですが、最初の約束どおりの1デナリオンだけでした。文句を言った彼らに対して、「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」とここでいわれています。
この個所には主の平等さ、寛容があります。徹底的に約束を果たされる主、本来神の園であるぶどう園に働くことも可能ではなかった私たちが雇われているという。平等に公平に、恵みと慈しみの内に、養われれているという事実に目を留めなければ、このたとえを理解することはできません。自分がどの時間に雇われた者であるかということにおいて、明確な認識をしなければならないからです。先に救われていると思っている者たちこそ、不満が出るのです。そこには、自分が最後に救われた者と同じという視点がないときに、感謝ではなく、不満だけが残るのです。
かつて私たちキリスト者は非キリスト者であったのです。あるいは今まさに眠っている、いやもしかしたら死んだキリスト者であるのかもしれません。主イエスは、まだ信じない者たちのためにおられたのであって、イエス・キリストのためにいた者などいなかったのです。いや彼らが敵であったときでさえ、キリストは彼らのためにいまし、彼らの希望であったのでした。パウロは救われて賛美しています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の血によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:10)そのようにして、私たちもまた敵対していた者でさえ、聖霊が彼らに対して明らかに約束されていたということに対して、たた感謝すべきなのではないでしょうか。
田無教会牧師 中山仰
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