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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年6月14日「ああエルサレム」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書13章31-35節

  • メッセージ:中山仰牧師

1.メシアとエルサレム

13:31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、と主イエスに伝えましたが、この時のファリサイ派の人々には特別な悪意や奸計はなかったようです。なぜなら主イエスは彼らに対しては何の言及もないからです。徹底的にヘロデについてのみ攻撃しています。そのようなヘロデの陰謀に対して、主イエスは「あの狐」という厳しい言い方を放っています。「狐」という呼ばわり方は、大したことのない人物を表すユダヤ的な蔑称の「滅ぼす者」の意味があります。

 主イエスは、ヘロデが恐れた原因である「悪霊を追い出し、病気を直す」メシアとしての業を進めて、真の大祭司として「すべてを終えて」、まっとうされます。それは「今日も明日も」なされ「三日目にすべてを終える」とあるように、もうすぐのことです。ですから、追立てられるからではなく、メシアとしての必然性から「進んで行かなければなりません。」そしてそれはまた、エルサレムでなされねばなりませんでした。なぜならエルサレムこそ、預言者殺しの常習犯者であったからです。そこで殺されることは当然メシアの定めなのです。「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないから」です。

主イエスの招きである「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言える時が来るように、民衆の心からの求めであり、賛美となる必要があります。

2.キリストに真にお会いする

 ここの個所は、真の問題はエルサレム回復問題ではありません。在世中のイエスさまによるにせよ、キリスト教会での説教者によるにせよ、幾たびも招かれている読者たちが「主イエスを相見る」再臨ということに対してどのように備えているかが問題なのです。確かに肉によるエルサレム市民も、その時イエスさまを見るでしょう。しかしそれは黙示録1章7節に「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」と言われているように、本当に求めていなければ、ただ「嘆き」の再会にしかすぎません。

ましてエルサレムの市民権も持たない私たち異邦人読者は、主の招きを拒んで二度と同じ過ちを繰り返してはなりません。「今日、明日、三日目」と区切られている、この今という短い時に、悔い改めておかなければないのではないでしょうか。

13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」という時の、「見る」とは、「会う」という意味です。このように、ヘロデとの対話を「エルサレムの嘆き」に結び付ける編集(手法)により、福音の招きに答えない消極的な態度は、メシア殺しに等しい積極的罪であるという使信が生れています。主イエスと本当に会うということを希望していないことになるからです。

3.エルサレムの滅亡

 主の神殿であるイエスさまご自身を捨て去れば、それと共にエルサレムは速やかに滅亡してしまいます。イエスさまは、神の御名によってエルサレムのために様々な労苦を取られました。そのお働きは、結局この都のために神の家を存続させるためでした。神殿は建物があればよいのではなくて、神の言葉に従わないときには、外側さえ、つまり主の宮殿は必ず廃墟となる(エレミヤ22:6)というものです。ファリサイ派の人々はこのことに全く気が付いていません。

32-33節は当然ご自分の十字架のことを指しています。ところが34節以下で、神の遣わされた預言者たちが殺され、主から遣わされた者たちをエルサレムは石で打ち殺しました。それでも主は13:34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。と呼び返したにもかかわらず応じようとしませんでした。

そこで主は「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたのです。神に逆らい、遣わされた預言者を殺したためにかつてバビロンへ捕囚となったではありませんか。そしてエルサレムに神殿を再興しましたが、主の嘆きのとおり、その神殿は石の上に石が積み重ねられないほどの破壊をもって壊されます。どうして嘆かないでおられるでしょうか。

4.私たちの罪とキリストの教会

 だいたいのキリスト者は自分を抑制しながらも、もっと立派な信仰を欲しがっていることでしょう。これを関根正雄という旧約学者の先生が「むさぼりの罪」だと言い切ります。そのむさぼりの罪が、恐ろしい行為を起こすというのです。聖書はそのような立派な信仰の向上を語ってはいないというのです。聖書が勧めるのは、「低くなれ」というただ一事です。本当に自分がだめだと思ったところまで至ったら、はじめて十字架が本当に自分のものになるとおっしゃいます。ファリサイ派の人は皆金持ちだったのではありません。ただし彼らの誰もが、もっと立派な信仰を持ちたいと願いました。その点に気が付いていて、本当はもっと立派な信仰を持って上へ上りたいのだがそうはいかないからここにうずくまっているよりほかはないという開き直りやボヤキの信仰生活ならば、これもまた「貪り」と同じであると指摘されます。

 救われるとは、ただ「めん鳥が雛を羽の下に集めるよう」なものです。お前たちを一所懸命集めようとした。この神の恵みの上でもない、下でもなく、まさにこの恵みの翼をもとになのだ。

 そう「十字架の基に」なのです。十字架の基、そこにこそ真の平安があり、祝福があります。そこでだけ、偽善は越えられます。上へ上へと上っていく新しいファリサイ派のようなキリスト者を生むところではありません。ここキリストの教会は、私たちの家、神の家なのです。私たちが安んじてよい、家です。ここの教会こそ、私の家だと主イエスが言ってくださるところに真の平安が生れるのです。毎週この礼拝において、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言い交わすのです。

田無教会牧師 中山仰

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