聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書14章25-35節
メッセージ:中山仰牧師
この個所では「わたしの弟子ではありえない」という言葉が三度も宣告されています(26,27,33節)。このイエスさまの弟子になる条件は、「大勢の群衆が一緒について来た」ので、それらをふるい分け必要から出ています。単なる奇跡や力ある言葉に浮かれて、情緒を失って弟子となることが戒められています。その意味では盛大な大宴会のたとえで拒否する人たちがふるい分けられるモチーフと規を一にしています。24節「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」と35節(塩に味がなくなれば)「畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」とが呼応しています。
使徒たちが派遣される時、持ち物を持たずに出ていけとか、最低の持ち物で後は先方で出してもらう出家の決断、富める青年に対して持ち物を売って貧しい人に施しなさいとか。ペトロが「あなたこそ生ける神の子キリストです。」と信仰を告白したときに、続けて「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と、十字架を前にした時の覚悟、「思い悩むな」と言われた主は、自分の持ち物を売り払って施しなさい。・・・尽きることのない富を天に罪なさい。」と財産放棄における犠牲的態度などは共観福音書のいたるところに語られています。
おそらく元々の意味は、巡礼のように従って来る大群衆に対して、メシアと共に都に上れば「神の国がすぐにでも現れるように思っていた」甘い予断を断ち切ることでした(19:11)。そこから、弟子となるものは二度と帰らぬ覚悟をしなさい。ローマ軍の極刑である「十字架」にさえつく闘いの用意をしなさいというリアルな響きを持つ召集令状として語られたのでしょう。
ルカはここで、異邦人読者相手という異なる状況下で、再解釈をしています。出家は、家族を「捨てる」ことではなく、「憎むこと」それも「わが妻」どころか「自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」と自己否定の内面性へと深められていきます。
十字架は、十二弟子にかぎらず「皆の者が日々負うものなのです。」そのための財産放棄も「塔を完成ない人のたとえ」と「講和を求める王の譬え」が教える意味での「捨て方(切り方)」なのです。これを信仰的に捉えないと、出家しても、一生瞑想しても何も得ません。
そのためにはまず第一に、本当に隠遁してでも、もちろんそんなことをしなくてもちゃんと「費用の計算」をすることです。そのためには「まず腰をすえて計算」する正確さが求められます。「腰を据えて」とは、暗算するのでなくて、腰を据えて周りの石を扱って手に取って配置しながら思考を深めて行くように確かな方法でなされる方法です。たとえの趣旨は、途中でやめるくらいなら初めからするなという否定的な考えではありません。血気に逸る軽率さが戒められています。どれだけ思慮深くあるかということが勧められています。
第二に、完成しなければ、着手しなかった時より事態が悪化することを考えて、完成することの責任重大さを認識することです。もちろん神ではありませんから、生涯起こり来る一つ一つの試練を知る由はありません。しかし、何が起ころうと完成すると決意することは別です。盛大な神の国への大宴会に招かれるお話で、旧約時代の第一回の招待の必要がないことを学びました。しかし、入信生活に前もっての決心が必要であることがここでは教えられています。
この決意や決心はどこから来るのでしょうか。ただ「主イエスさまの弟子である」ということが人生の一大事業であるとの認識と評価から生まれます。大きな犠牲を払ってまでも取り組むのは、やりがいのある大事業であるという喜びからだけ、覚悟できるのではないでしょうか。
もしこの喜びを失ったら、「何によってそれに味をつけるのでしょうか。」34-35節「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役だたず、外に投げ捨てられるだけだ。耳のある者は聞きなさい。」
主イエスの弟子らしい味・塩味のある弟子とは、この光栄を生涯心に記し反芻しながら天の御国へと結ばれて行く人のことです。
主イエスはマタイによる福音書13章44-46節で、「天の国は次のようにたとえられる。はたきに宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。証人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
キリストの弟子になることはかくも厳しいものであります。しかし、大宴会の譬えのように、神の国で食事をする約束が与えられているのですから、心から従い得るでしょう。神の国への待望が揺らいでいるならば、難しいかもしれません。
自分の十字架を負うということは、特別に意識しなくてもキリストに従う決意をした時に、周りの多くの人たちから疎まれたり、白い目で見られたりします。その点においては、自分の十字架を負わなければなりません。
9章21節以下の主イエスの「死と復活」の予告ですでに言われていました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」
父、母や家族友達を故意に恨んだり蔑んだり拒絶したりする必要はありません。むしろ先方から疎まれたり、時には拒絶ということさえ起こるからです。
これらの選択が計算していないことにあてはめられるのでしょうか。価値観が異なると言ったらよいと思います。ただ世の中へ出てお金持ちや出世することが計算をちゃんとしているということにはなりません。生きる道は本当に正しいのであろうかという問題です。
信じ始めた信仰が間違いなく永遠の命へと通じているかどうかという計算になります。
天国に名が記されていますから、神の国の大宴会に招かれているのです。私たちの国籍は天にあります。
田無教会牧師 中山仰
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