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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年7月26日「失われた者を捜し出す主」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書15章1-10節

  • メッセージ:中山仰牧師

前段はイエスさまの弟子であるための出費がいかに大きいものかを学びました。「父、母、子供、兄弟、姉妹をさらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」または「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」というものでした。しかしその代償として、神が私たちを弟子とするための、今度は神のコストが「失われた一匹の羊」たとえと「銀貨一枚」のたとえで教えられます。

 神の民を羊に例えるのは、旧約以来の伝統です。詩編119:176では、「わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探し出してください。あなた戒めをわたしは決して忘れません。」新約では、ヨハネ10章で「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」でも「わたしは羊のために命を捨てる」とさえ言われる羊飼いは主イエスのほかにいません。

 ここでは、その良い牧者は失踪した羊を捜し出してかついで帰ります。ヘブル語では「悔い改める」ことを「帰る」と表現します。そこで悔い改めとは、私たちが神へ立ち返ることになります。

 ここでの悔い改めについては、時の切迫と言う動機からではありません。何と神の喜びという動機から勧められているということです。真の神は、単なる義の裁きの神ではありません。罪びとが立ち帰って生きることを心から喜ぶ神です。

 この愛には、神が私たちひとりひとりの名をもって知ってくださるほどの値打ちがあることが前提とされています。「女が乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15)。

そもそも、ここで主イエスが何でこのたとえ話をしたかと言いますと、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」ことに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言い出したからにほかなりません。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではないとはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)という言葉こそ私たちを生かす言葉です。本当に自分の罪を悲しみ、悔い、何とかして救い出して欲しいと心から願う者を主は顧みてくださいます。

 片やファリサイ派や律法学者たちは「不平を言いだした」のです。これは神のなさる憐れみ深い救いのご計画に反することです。そのような者こそ「悔い改める必要のない99人(匹)」なのです。

子ども讃美歌55番:讃美歌21-200番に「小さい羊が」の4節に「とうとうやさしい羊飼いは、まいごの羊を見つけました。抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました。」とあります。でもここでは、「喜びが天にある」ことがはっきり記されてあります。ここは失われた魂の立ち帰ることを喜ぶ主の喜びが圧倒している個所です。

極論すれば、本来羊には一切の救われる権利も価値もないのです。それがさらに顕著になるのは、次の「無くした銀貨」の譬えです。ドラクメ銀貨は一日の賃金ですが、当時の貨幣価値から考えるなら、ほんとに微々たるものにしか過ぎません。しかし必死に探し、見つかった時の御神の愛なのです。この時、この女の目的にとって、欠けた一枚がなくてはならない宝であったことは、捜査の執念からわかります。この一人の持つ値打ちとは、神が一人ひとりに示される関心です。神の方から率先して捜し出してくださる熱心です。

 信仰に入るとは、この羊の大牧者である神の一方的捜査に気が付くことです。そして「わたしはお前たちの神である」という愛の権威に気が付き、心から畏れ敬い感謝することです。その時、自分が立ち帰ることが神の大きな喜びであることを知ることでしょう。徴税人や罪人と同じように、異邦人であっても、そしてどのような状況においても、特にこのようなコロナウィルスの蔓延の中にあっても、それがいまだ収まらないような状況にあるからこそ、神のご計画を探り求め、主と共にいることに心から安心して過ごしましょう。礼拝に招かれているということは、私たちは間違いなく愛されているのです。御言葉によってそれが保証されています。

 私たちが無償で救われているということ、しかも私たちは心のどこかで哀れな羊であると思っています。そうではなく、羊のような存在ではなく、生きていない貨幣のような存在です。そのことを十分に、心から受け止める時、どうでしょうか。そのような状態からさえ救出されたいうことを重ねると、圧倒的な感謝が湧いてくるのではないでしょうか。その時、私たちは何をしたらよいのでしょうか。そうです。まだ救われていない、主の牧場の囲いにいない多くの友人や町の人々や家族にこの喜びをお伝えするのではないでしょうか。またそれができていないことに、大いなる悔い改めを必要とするはずです。ですから、教会の伝道活動を通して一人の方でも救われたときには、かつての自分の姿をそこに重ねて「友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。このような教会の活動によって、私たちも時満ちて、いろいろな人の招きが用いられ、命の主によって救われているのです。

田無教会牧師 中山仰

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