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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年12月18日「私がクリスマスを迎えられるなんて!」主日礼拝(アドヴェント第四主日)

  • 聖書箇所:ルカによる福音書1章46-55節

 

とあるファッションビルのキャッチコピーに「私には、クリスマス権があるのだから」とありました。そのビルのホームページを検索すると、そこには「もっと自分自身の欲望に素直に向き合って、一年に一度くらい、自分にご褒美をあげても良いのではないか。クリスマスを誰かに贈り物を贈る日としてではなく、自分のために思いきり楽しんでほしい」と書かれていました。多くの日本人にとって、クリスマスは「プレゼントを贈り合う日」に過ぎないようですが、そんな薄っぺらなクリスマスに喜びを感じられない人がいるのも当然です。ただ、そういう人たちへの「もっと自分自身の欲望に向き合おう」との呼びかけは、クリスマスの本来の意味の真逆の呼びかけです。きょうは、御言葉から、本来の意味の「クリスマスの喜び」を再確認したいと願っています。

12歳のおとめマリアは、天使から受胎告知を受けたとき、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、神様に対して謙遜に告白し、未婚の母となる苦労をその身に負いました。マリアは、親類エリサベトの口を通して、神様の祝福の宣言「あなたは…なんと幸いでしょう(42節、45節)」を聞いたとき、賛歌(46節-55節)を歌いました。

マリアの賛歌の冒頭部分で、“魂”“霊”は、心の奥底を表します。46-47節意訳:「あがめます、わたしは心の底から、わたしの主を。喜びたたえます、わたしは心の底から、わたしの救い主を」。心の底から湧く賛美・喜びが、この賛歌のテーマです。

なぜ「私は主のはしためです」と、自分の楽しみを二の次にして苦難を背負おうというマリアに、賛美・喜びが湧き上がったのでしょう。それは神様が「身分の低い(=主人のために労苦する)、この主のはしためにも、目を留めてくださったから(48節)」です。はしためが主人のために労苦するのは当然です。なのに、主なる神様は、はしための「謙遜さ・労苦するさま」にわざわざ目を留めてくださいました。彼女がエリサベトの口を通して神様の祝福を受けたのは、主なる神様が彼女の労苦に目を留められたからです。そのため、マリアは賛美に至りました。

「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう(48節)」は、神様が今から後いつの時代もマリアの労苦に目を留めて祝福してくださることを歌います。このような神様からの祝福は、労苦し仕える者のヤル気を引き出します。神様が目を留めてくださらなければ、労苦した自分を自分で労うしかありません。(自分へのご褒美が欲しくなるかも!?)しかし神様が目を留めてくださるなら、神様御自身が「あなたは幸いな者だ」と、マリアを励ましてくれます。

マリアは、「神様が目を留めてくださる」ことを、「力ある方」の「偉大なこと」と表現しています(49節)。続いて、その「力ある方」の御力がどれほどのものかが歌われます(49節~53節)。「権力ある者(52節)」は統治者・王です。統治者は本来、神様から知恵・力・財を預かって国を治める者ですが、思い上がって、それらを自分のものだと勘違いしがちです。御力は思い上がった者らを打ち散らし、王座から引き降ろし、思い上がった「富める者」をもてなさず追い返します。御力は反対に、預かりもので私腹を肥やさない「しもべ・はしため」の地位を向上させ、手厚くもてなします。御力は人間社会の秩序をあべこべにします。そのあべこべは、社会全体を神様の秩序のとおりに安定させます。主なる神様は、近隣諸国に虐げられる弱小のイスラエル民族に、この正義のあべこべの御力を「救い」として約束されました(旧約聖書)。

マリアにとって「労苦する」主のはしためが「祝福される」という大逆転は、イスラエル民族が先祖代々聞き続けてきた約束の救いに共通するものでした。彼女は「主なる神様による、主の民を救う大逆転の始まり」がマリアの身に起こったのだ、と、理解したのです。

キリスト教会はクリスマスを、イエス・キリスト降誕記念日として迎えます。クリスマスには救い主が世に来られたことに対する喜びの思いと同時に、その救い主を救い主として受け入れなかった自分の罪を悔い改める思いも湧く記念日です。教会に集うキリスト者は、クリスマスに「自分の欲望に素直に向き合う」ことをせず、静かに、キリストを礼拝して過ごします。クリスマス・イブはパーティをした方が楽しいかもしれませんが、そういう楽しみを脇に置いて、教会に集まり、礼拝にいそしみます。

そうであるにもかかわらず、クリスマスを最も喜んでいるのは、言うまでもなくキリスト者たちです。クリスマスにプレゼントを贈り合うだけだった人たちは、クリスマスに飽きました。自分へのご褒美を買うことにした人たちも、きっとすぐ飽きるでしょう。なぜなら、救い主よりも自分の楽しみを優先するクリスマスには、中身がないからです。自分自身の楽しみを捨てたかに見えた人たちが、礼拝を通して、心の奥底から湧き上がる喜びに満たされるのが、本来のクリスマスです。楽しみを捨てた者がかえって喜びに満たされるというあべこべ・逆転は、力ある神様が私たちの身に実現させてくださった救いです。救い主を喜ぶ喜びに、礼拝者は満たされます。

聖書の中での最大の大逆転は、十字架に死に、三日目に復活され昇天されたイエス様の出来事です。この大逆転をもたらす力をお持ちの方が、この世界に平和を実現されます。真の平和が実現する時、私たちが知る世界の秩序があべこべになるかのような大きな変化が起こります。しかしそれは未来のことではなく、既に今、少しずつ、神様が私たちの身にも救いのための逆転を起こしておられます。欲望に耽らない礼拝者こそクリスマスの喜びに満たされるという事実も、その一つです。礼拝者こそが「幸いな者」と言われる時代が、もう始まっています。

マリアは「自分の楽しみを脇に置いた私が心の奥底から喜ぶことができるなんて!」という感動をもって、賛歌を歌いました。私たち礼拝者もクリスマスに同じ感動に満たされます。この感動を、多くの人に伝えたいです。クリスマスの背景に素晴らしい「救い」があると知らしめるために、キャンドル礼拝やクリスマス主日礼拝が用いられますように。

(牧師 伊藤築志)

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