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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2023年1月22日「救われる必要はどこに?」主日礼拝

  • 聖書箇所:ヨハネによる福音書8章31-38節

 

「救われる必要はどこに?」(ヨハネ8:31-38)

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。 38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

上記の御言葉は、イエス・キリストと「御自分を信じたユダヤ人たち」との会話の記録です。イエスの教えは当時のユダヤ教文化と相容れなかったのですが、ユダヤ人たちにとってイエスの教えは異質でありながらも新鮮に響きました。多くのユダヤ人たちが、イエスの教えに魅力を感じ、その言葉を信じました。

イエスは、彼の新鮮な教えに魅力を感じた人たちに、一歩進んで「イエスの言葉にとどまる(=住み込む)かどうか」遠回しに問いました。イエスの言葉に住み込むことは、ユダヤ教文化から離れてイエスの言葉の内に移住するようなことです。イエスの言葉の内に生活のすべてを移せば、ユダヤ人たちは「真理を知り」、「真理はあなたたち(ユダヤ人たち)を自由に」します。

しかし、イエスの「真理はあなたたちを自由にする」という言葉が、ユダヤ人たちの怒りを買いました。なぜならその言葉が「あなたたちは今、自由ではない」という意味で聞こえてしまったからです。ユダヤ人たちには、「真理など知る前から、私たちは自由だ」という誇りがありました。その根拠は、ユダヤ人が(何事に対しても自由であった)アブラハムの子孫であるということにありました。彼らにはその誇りがある故に、イエスの言葉を聞き捨てにできなかったのです。

イエスは、怒るユダヤ人たちに答えて「奴隷と、子」の話をしました。奴隷は、自分の意志で退職したり、主人の家に居続けたりはできません。他方、雇い主の家の子は自分の意志で家を出ることも、家にとどまり財産を相続することも選べます。イエスは、自分自身をどうするか決める自由がない状態を「奴隷」と表現しました。奴隷に自由はなく、子には自由があります。

さて、当時のユダヤ教指導者たちはイエスを殺そうと企んでいました。彼の教えがユダヤ教伝統に反したからです。指導者たちも、自由を誇りとするユダヤ人たちも、イエスに怒りを抱いたのは、イエスの教えがユダヤの伝統や誇りを無意味にしないかと警戒したからです。彼らはアイデンティティを守るために伝統・誇りを握りしめており、それを手放す自由がありませんでした。彼らは伝統や誇りに縛られた奴隷の状態に陥っており、その結果、イエスを拒んだのです。

なぜユダヤ人たちは伝統や誇りの奴隷状態に陥っていたのでしょうか?彼らも「罪の奴隷」だからです。聖書は、人類が皆、自分の意志では神の御意志に従い得ない、罪(神の御意志に背くこと)の奴隷状態にあると教えます。当時のユダヤ教も、「アブラハムの子孫であることが大事」という神の御意志の一部を極端に重視していびつになり、旧約聖書全体に亘って記された神の御意志に十分従うことができなくなりました。その結果が、イエスの教えへの拒絶・イエスへの怒りとして現れました。彼らの奴隷状態は、罪の奴隷であることから生じたのです。

罪の奴隷状態から救われなければならないのは、罪が死と直結しているからです。聖書は、「罪が支払う報酬は死です(ローマ6:23)」と教えています。人間が生きるためには、罪の奴隷状態から脱し、罪から離れる必要があるのです。

アブラハムは何事に対しても自由でしたが、それは神が自由をお与えになったからです。ユダヤ人たちは、アブラハムが持った自由を受け継げませんでした。なぜなら、自由が遺伝するものではなく神から頂くものであるにも関わらず、彼らは「アブラハムの血を引く子孫だから我々は自由だ」という歪んだ伝統を築き、神から自由を頂くという信仰を失ったからです。

奴隷が解放されるためには、自由な身分の者(35,36節の「子」)に解放してもらう必要があります。罪の奴隷状態から解放されるためにも、罪に対して自由な方によって罪から解放してもらう以外に方法がありません。イエスこそ、人類を罪の奴隷状態から救う、神の子・救い主です。イエスの言葉 ―そして彼自身― には、人類を罪から解放する真理があります。イエスは後に不当な裁判により十字架刑に処されますが、イエスはその無実の罪を受け入れ、ご自分の足で死刑台まで歩かれました。なぜなら「罪に対して自由なイエスが罪の代償として死ぬことで、罪の奴隷たちを自由にする」という、人類に対する神の愛に、イエスが従ったからです。

罪の奴隷である私たちは、イエスの言葉により、「自分も死と直結した罪の奴隷なんだ。生きるためには、罪から救われる必要があるんだ」と教えられます。そしてイエスの言葉の内に住み込めば、真理を知り、その真理によって本当に罪から自由にされます。人類は、自分自身がこれまで握りしめていた価値観やこだわり、誇りがそもそも罪の影響により歪んでいたと知り、握りしめていたものを手放してイエスの言葉の内に住み込み、救われることが必要です。

どうか、イエスの言葉を受け入れて、人類はイエスの言葉の内に住み込む必要があると知ってください。罪の奴隷である私たちは、自分の意志では、住み込めません。ここで、アブラハム同様、私たちも神の力を頂く必要があります。イエスの言葉は聖書全体に響いています。私たちをイエスの言葉の内に住み込ませ、救う、神の力を祈り求めましょう。

(牧師 伊藤築志)

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