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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年5月31日「からし種とパン種」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書13章18-21節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 本日は教会の誕生日であるペンテコステの記念礼拝です。

 イエスさまがアブラハムの娘をサタンから解放したような、輝かしい「数々のすばらしい行い」は、神の国の到来を証します。神の国の完成の形はけたはずれに素晴らしいものです。それを教えたいのが、この「からし種」と「パン種」のたとえなのです。

「からし種」はガリラヤ湖畔でもある程度成長しますが、「庭に蒔いて」特別に手をかけてやると数メートルにも達することがあります。その種はゴマを摺りつぶしたようなパウダー状の小ささです。そこから成長して「大きな枝を張る」(マルコ4:32)その差の大きさとは、支配権が拡大することを意味します。またからし種の成長によって「その枝には空の鳥が巣を作る」とありますが、主権が諸国におよぶことを意味します。そこから解るように、「大きな枝を張る」とは、世界各国の真の安全と保障となる巨大な神の国を意味します。

 これらの譬えは、キリスト教会の成長予想図ではありません。なぜなら教会がまだ無かったイエスさまの在世中にもすでに神の国は来ていたからです。主イエスが悪霊を追い出されたとき、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)と言われていることから確かです。その神の国の始めと終わりの比較が中心点です。「からし種」と「木」の関係、また「パン種」と「ふくれた全体」との関係は、初めは小さく目立たない始まりとやがてもたらされる全体を圧倒する完成態の対比です。とりもなおさず、主イエスの在世中には人目に触れず、あなどられた神の国と終末の天国との対比であり、「非連続の連続」があります。

 個人のからだにも、肉の体と霊の体に「非連続の連続」があることをパウロはコリント書で語っています。「非連続の連続」という表現は難しく感じるかもしれませんが「死と復活」という関係を考えると納得いただけると思います。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:42-43)と。本来私たちは復活したときとこの地上の体との関係は、同じ人物でありながら別のものです。このようにキリストの体なる教会と天国とにも明確な「非連続の連続」があるのです。

 主イエスご自身も祈りつつ、御父のみ旨を果たされました。そして地上の生涯を終えられた後に、主イエスが天に昇られる前に約束してくださった約束があります。それが聖霊である真理の御霊の派遣であり、降臨なのです。

この主イエスが約束してくださった真理の御霊が降ったのが、ペンテコステと呼ばれる日です。それ以来使徒たちは、恐れずに大胆に真理の御言葉を語り続けましたが、それはイエスさまの教えや力ある業がベースになっています。決して主の御言葉を離れては成り立ちません。ここにも「非連続の連続」が鮮やかに現わされています。もし私たちが御言葉から離れるならば、どんなに熱心にではあっても、それは人間の熱狂主義であり、またはただ人間の力に依り、信仰とは途方もなく違った業となってしまいます。

このペンテコステ以来、弟子たちは力を得て全世界へと宣教活動を推進して行きます。その力はもはや神の国の進展ですから抑えることはできません。

今日の「からし種」と「パン種」のたとえは、対比以上に、始点から終点へと至る生命力も教えられています。

 ここの御言葉でも言われているように、打ち出の小づちや魔法の杖をふりかけて劇的変化が起こるような魔術的スピードで成長することが約束されているわけでありません。早いか遅いかが問題なのではありません。神の国の進展の確実さと生命力のリアリティこそが問題なのです。

 神の国は、どこかの政府が核の傘を安全保安の頼りとする以上に、リアルに、世界の安全保障となるものです。このことを本当に信じるとき、その人の全体がおのずから変質せざる以外にありません。その変質は、練った小麦粉がふくよかなパンになること以上に確実なのです。この神の力は、御父と御子なるイエス・キリストによって送られる、まさに神が遣わされる聖霊によって可能なのです。私たちはそのことの証人です。

 主イエス・キリストと真理の御霊と私たちの関係は、「非連続の連続」なのです。私たちは本来、神の前に立つことのできない罪びとだからです。しかし、その私たちが御子に愛され、御子により罪びとが神の子とされていることを確信できるのは、まさに聖霊なる神様の恵み以外の何ものでもありません。神と断絶している罪びとが、御子を媒介にして、神の子とされることこそ、本来ありえない「非連続の連続」なのです。

 その保証は、御子イエスさまが父の元から私たちに遣わしてくださった弁護者、すなわち父のもとから出る真理の霊が来るときに可能なのです。まさにペンテコステにより、実現しました。聖霊なる神は、イエスさまについて証をなされました。そして御子を信じる私たちも、光栄なことに歴史の初めからその救いの計画に入れられていたのです。ですから時満ちて救われたときに、主と共にいる確信を強められ、証しするのです。その確信が薄い者は、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探すものは見つけ、門徒たたく者には開かれる。・・・まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:9-13)という助けによって祈りましょう。確かな約束があります。

田無教会牧師 中山仰

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