top of page
検索
  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年7月5日「神の国の大宴会」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書14章15-24節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 オリエントの正式な招待は二度繰り返されます。それだけに逆に「二度の招待を断るのは侮辱であり、アラブ諸部族間なら宣戦布告に等しい」(トリストラム)という文書があります。旧約時代に招きを受けていたユダヤ人は洗礼者ヨハネや使徒たちによる、いわば二度目の神の国への招きを受けながら、「断り始めた」ことに相当します。主人は二度目にファリサイ派の人々から招かれない人々、すなわち「町の広場や路地へ出て行き、貧しい者、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招いています。そこから、初めに招かれていたのは、ユダヤの指導者たち、ファリサイ派の人々や裕福のユダヤ人たちであることが分かります。

 招かれた客人たちは、第一回の招待に応えています。しかし第二回のとき、「どうしてもやらなければならないことがあるから」というそれぞれの理由で断っています。それぞれの理由とは、すべて大切なものです。畑を買ったこと、牛を二頭ずつ五組買って調べに行く。妻を迎えたばかりなので、行くことができないという立派なものです。しかし、これらの理由は、口実でしかありません。私財の管理、畑仕事への熱心、妻を楽しませる思いやりなど、ある面では結構な美徳ですが、御国の招きの前では障害となるのです。人の子は、飲食や商売などの日常の生活の真っ最中にやってきます。その時、その備えは十分でしょうか。

 洗礼の決意は本当に荘厳な重いものです。皆様も受洗される時にそれ相当の闘いをしておられることでしょう。そのようにして洗礼にまで至った私たちは本来、救いの招待に招かれていなかった者なのです。招待された人々の棄権によっていわば転がり込んできたチャンスを得た者たちなのです。神の国の大宴会である、キリストの婚宴に招かれ、その食事と恵みを味わえるのは、誰でしょうか。それが主イエス・キリストの流された血潮によって贖われた洗礼を施された、ほかならない私たちなのです。この神の恵みの言葉に聞くことです。

 私たちは日常生活の中で、神の言葉をいつも聞いて受け入れているでしょうか。今こそ、その言葉を聞かなければいけない時に、ここでそんな言葉に聞き従って自分の生活を変えるわけにはいかないと耳を塞いでしまうのではないでしょうか。いずれ御言葉に聞き従いますから、今はまだ良い大学へ入るために勉強時間が必要です。とか、大きな商売をするために時間とお金が必要なのです。とか、結婚するので今は勘弁してくださいというような理由で断っているのではないでしょうか。このような私たちの判断で、大げさなようですが、今日の世界の危機につながってさえいるのではないでしょうか。効率、能率主義がはびこっているからです。

 ダビングテープをするときに、元のテープをマスターテープと言います。では受け手のテープは何というのでしょうか。それはスレイブテープつまり奴隷という名がつけられています。ダビングされるスレイブテープの方は、録音済みのマスターテープのいうことを聞かなければ、全然ものになりません。言葉は厳しいかもしれませんが、奴隷のごとく忠実に動かないと役に立ちません。勝手なことをしたら使い物になりません。私たちは、主イエス・キリストの奴隷なのです。主という言葉の反対語は僕というと少し聞こえがよいのですが、つまり奴隷なのです。しかし主は強引に鞭をもって、また機械的に縛り付けようとされません。喜びをもって縛っている?喜ばずにはおれないような方法でそっと包み込んでくれています。マスターのテープに吹き込まれている礼拝の喜びを、そしてそこから天の父の御国の大宴会に参加し、喜びの望みを、私たちの空のテープに豊かに注ぎ込んで、注ぎ込み、満たしてくださっています。そのための招きなのです。そのような招きを断るなら滅びがあっても仕方のないことと言わざるを得ません。喜びにしか命はありません。このことを思う時に、私たちは確かに罪びとですが、語弊を恐れずに言うならば、そんなことをいちいち心配するのでなく、私は至らないものだなどと止まっていないで、自分なりに思い切って、主を信じて生きるほかないのではないでしょうか。どんな豊かな神の業に生きることができるかということを、望みを持って信じ、そこに生きることができる喜びに進むことではないでしょうか。私たちはすでに、そのように招かれている者たちなのです。感謝して主の御名を唱えつつ、礼拝に励みたいものです。

田無教会牧師 中山仰

閲覧数:70回
bottom of page